西田幾多郞著『哲學槪論』 附錄第一 哲學と宗敎

附錄第一 哲學と宗敎

哲學は槪念的知識である點に於ては科學と同種である。併し哲學の目的である宇宙人生の究極の問題を解決して宇宙と自己との關係を定めること、卽ち意識の最終統一に達せんとする目的に於ては反つて宗敎に同じものである。それでは宗敎とはいかなるものであるか。宗敎といふものも哲學と同じ樣に非常に種類がある。之を一つの槪念にていひ顯すのは餘程困難である。併し情意の上に於て自己と宇宙の關係を解決したもの、卽ち統一したものが宗敎であるといつてよからうと思ふ。宗敎の種々の相違の出てくるのは各人の情意の相違、寧ろ人格の相違に由つて、此の解決の仕方が異つてくる爲であると思ふ。例へば感性的快樂の外に出ることのできぬものの宗敎はどうしても物質的たるを免れない。死んでパラダイスに行くといふが如きことが彼らの宗敎でなければならぬ。彼らは之に由つて自己と宇宙との情意上の解決を得て居るのである。かれ等には未だ critical sense <批評的精神>が發達して居らぬ故、現實の上に於て解決できない所を空想を以て補ふて居るのである。もし批評的精神が發達してかういふ素朴な統一ができにくくなると、今度は情意の上での變化、卽ち人格の變化によつて解決するより途はない。そこで spritual religion <精神的宗敎>といふものが出て來なければならぬ。〔個人についてかくいひ得るのみならず、民族についてもかくいひ得るであらうと思ふ。〕かういふ樣にとにかく宗敎は情意の上に於て自己と宇宙との關係の解決であるといふことができる。〔他力宗、自力宗といふも其背後に同一の點がある。〕(フォイエルバッハは Götter wie Mensch <神々は人間の如し>しかいつたことがある。)併しかくいへばとて宗敎は單に主觀的で fiction <假構>だといふのではない。人により、國民により宗敎は違ふといふも、宗敎は人間が artificial <人爲的>に作つたものではない。一つの關係を見ることの深淺によるのである。知識でも絶對の眞理といふものは人間には得ることはできぬが、知識の客觀的標準を立てうる樣に宗敎にも客觀的標準を立て得るのである。

かういふ樣に考へて見ると哲學も宗敎も其目的に於ては同一となつてくる。共に人心の究極的統一に達せんとする要求から起るものである。若し人間がかくの如く無限の統一を求むる力を Vernunft <理性>と名づけるならば、共に理性から起るといつてよからう。ヘーゲルは宗敎といふ語を狹義と廣義とに用ひ、廣義に於ては所謂宗敎と藝術と哲學とを含めてゐる。それではいかなる點に於て異つてゐるか。哲學は認識の上に於ての究極の統一であり、宗敎は情意の上に於ての究極の統一である。元來人心は一であつて知、情、意の區別は絶對でないかも知らぬが、とにかく現今の我々の意識狀態に於て Vorstellungszusammenhang <表象關聯>と Gemütsbewegung<情意活動>とはある程度獨立に成立し得ることは事實である。ソクラテスや陽明のやうに知行合一といふのはかくなければならぬものではあらうが、實際に於ては我々は知識の上に於て善と信じてゐても、情意の上に於てかく感ずることはできぬといふことがある。哲學といふのは槪念的智識である。 Verstand <悟性>に由つて作られたものである。よし其の起源は Intuition <直覺>より得たるものであるにせよ、悟性によつて理解し得べきものでなければならぬ。宗敎は之に反し情意の上の滿足である。認識の上に於て之に合理的解釋を與へぬからといつて、之に反せずば、宗敎であるに差支がない。我々の欲望の中には合理的解釋のできぬものが多い。又それが現今に於てできたと思つて居た所が果して最終の解釋かどうかといふことは分らぬ。併し飢ゑた人が食に由つて、渴したものが飮に由つて滿足するのは疑ふべからざる事實である。ニュートンの如き人でも一方では基督者であつた。パスカルの如き、實に深く宗敎的といふべき人であつた。かくして宗敎は哲學以外に自己の領分を持つことができる。知よりも情意の方が人心の根柢である如く、宗敎の方が哲學よりも更に一層高くまた深い眞理──廣義に於て──といふこともできる。宗敎哲學に於て、カント、リチュル Ritschl 等の流を汲む日は哲學といふものから全く切り放して宗敎を立てようとしてゐる。

かく哲學と宗敎とはその目的を同じくするに關せず、互に異なつた領分を有し、獨立に成立しうるに拘はらず、全然獨立のものであるといふことはできぬ。我々の知情意はある程度までは互に獨立であることもできるであらうが、どこまでも互に獨立であることはできぬ。我々は一人格である以上はしかく大なる矛盾を許すことはできぬのである。深い哲學は必ず一面に宗敎的基盤を有し、眞の宗敎は必ず一方に哲學を要求するやうになるのである。古來哲學と宗敎と衝突したのは互に相反するといふことを證明するよりも、余は寧ろ一致の證明と見るのである。同一の領分を占めんとするものにして初めて爭が起るのである。古來宗敎と哲學との衝突といつて居ることはその實衝突ではなく、反つて雙方共に之に由つて發達したのである。ギリシャ哲學はその民族宗敎である多神敎に反抗して起つた。クセノファネスはホーマーの神々が餘りに人間的であり、人間的な弱點を有するを非難し、プロタゴラスは神々の存在を疑つた。併しギリシャ哲學は一方に宗敎に對し反對的態度を有すると共に、プラトン、アリストテレースの哲學は大に monotheistic tendency <一神論的傾向>をもつてゐる。宗敎と哲學と結合してゐる。プラトンのイデヤの世界に於て最高のイデヤたる善のイデヤは神である。アリストテレースも一種の神を立てて居る。活動の原理卽ち純粹思惟の如きものがアリストテレースの神である。特にプラトンの哲學の如きは救濟を目的としたもので餘程宗敎的のものである。

中世に於ては此の關係が反對となり、宗敎が哲學の本となる樣になつた。〔ギリシャでは宗敎が哲學によつて洗鍊せられ、中世では哲學が宗敎に由つて深められた。〕〔自由意志、罪の考の如きキリスト敎の賜物である。此考はアウグスチーヌスから始つた。〕このやうに中世でも哲學を棄て去ることはできず、却つて宗敎的敎義の哲學に由る合理的説明が始つた。これが卽ちスコラ哲學である。

近世に於て哲學と宗敎の關係は又ギリシャ時代の關係にかへり、オーソドックスの宗敎といふものが哲學の方から深き training <鍛鍊>を受けて居るが、之が爲に宗敎は失ふ所なく反つて洗鍊せられ、深化せられたと思ふ。カソリック敎會が衰へてプロテスタントになつたとて、別に宗敎がなくなつたのではなく、却つて種々のドグマを離れて純粹な宗敎が發達したのである。哲學は批判的で個人的であるが、宗敎は權威的で社會的であるといふ人がある。併し單に authoritative <權威的>で社會的である宗敎は眞の宗敎でないと思ふ。かくの如き宗敎は眞に人心の救濟をなすことはできぬ。基督敎や佛敎は猶太敎や婆羅門敎の權威的且つ社會的なるに反して起つた。ルーテルの宗敎改革もさうである。眞の宗敎はいつでも批判的且つ個人的である。個人のコンバーションの場合に於ても非常なる煩悶を通過せなければ、眞の宗敎に入ることはできぬ。偉大な宗敎家は必ず一度此門を通過した人であつた。(ルーテルその他。)(近時大に此點を忘却して居ると思ふ。)

之に反し哲學の方から云へば偉大な哲學は必ず深い religious heart <宗敎心>より起るのである。宗敎を忘却した哲學は淺薄である。スピノーザの如き、また古代プラトンの如き一見極めて理知的であるに關せず、その裡面に深き religious heart をもつてゐる。偉大な哲學はすべて宗敎的であると思ふ。かの十八世紀の啓蒙時代に行はれた樣な純理知的な哲學は決して深い哲學とはいはれない。〔Vauvenargue─Les grande pensées viennent du coeur.<偉大な思想は心情より來る。>〕

何故に哲學と宗敎はかく相離るべからざるものであるか。宗敎は知識と沒交涉であると云ふ人がある。成程知識といつても光は微粒子の emission <發射>であるか、 wave <波動>であるかといふ如き特殊科學の知識の如きものと宗敎は沒交涉であらう。しかし世界とは何であるか、我とは何であるか、神とは何であるか、等々といふ如き哲學的知識と宗敎と沒交涉であるといふことはいかにしてもいふことはできぬであらう。唯物論を主張して居ながら一方に靈魂の不死を信じてゐることは不可能であらう。かく知識と情意と分離して而も宗敎的信念を維持することはできぬ。宗敎家がパスカルの樣に知識と情意の要求とを峻別し、而も人智が有限であつて到底宗敎的眞理を議するに足らずとせば、こはやはりカントの哲學の如き一種の哲學でなければならぬ。此の如き考へ方は一方から見れば知識を排除せる如きも、一方から見れば反つて能く之を理解したものであるといはれねばならぬ。(現時の宗敎哲學では此の如き態度を取る人が多い。)宗敎が哲學を離れるといつても、それは少くともかういふ意味に於てでなければならぬ。無論全然知識を超越せるが如き宗敎も成立し得るが、併し完全なる宗敎はどうしても知的要素を求めてくる。完全なる宗敎は單に知識を超越せるものではなくして、知識を自己のうちに取り入れるものでなければならぬ。キリスト敎と佛敎を比較してみると、キリスト敎に方は情意的にして佛敎の方は知的である。一は愛を主とし、一は悟を主として居る。完全な宗敎は此の兩方面を得たものである。ドイッセン Deussen 曰く。キリスト敎は汝の隣人を汝自身の如くに愛せよといふ。佛敎は之に加へて、何となれば汝と他人とは本來一であるからといふ。勿論宗敎の方からの知といふのは所謂 logical reasoning <論理的推理>と異なつたものであらう。そしてそのやうな知があるとすれば、そは一方に於て哲學の基となるものでなければならない。

哲學の方からいへば哲學は知識であるが、單にある前提の上に立つ一部分の知識でなく、究極統一である以上は、我々の情意の要求を度外することはできぬ。宗敎的信念が哲學の一要素を作つてくる。哲學者は必ずしも宗敎家といふことはできないかも知らぬが、とにかく自分の情意の appreciation と矛盾する哲學を以て滿足することはできぬであらう。その場合と反對に深く精神的信念をもつて居る人が唯物論で滿足せられることはできぬであらう。これパスカルの如きが自分の專門である科學に滿足されなかつた所以である。現時の傾向では宗敎を法律、藝術などと共に社會的心理的現象と見做し、 Religionswissenschaft<宗敎學>の對象として居る。しかし宗敎の如きは一方かかる知的考察の對象となるが、又一方ではその根柢となるのであると思ふ。

要するに哲學も宗敎も人心の同一の要求である。卽ち人心がその究極統一に達せんとする努力である。統一といふことが人間の至誠卽ち眞摯な狀態であり、かねて生命である。此の要求の理知の方へ傾いたものが哲學で、情意の方面に傾いたものが宗敎である。併し我々の人格の根柢が、理知であるよりは寧ろ情意の方にあるとすれば、宗敎は哲學よりも深いものとなる。