西田幾多郎著『哲学概論』 後記

後記

西田幾多郎先生が京都の大学で哲学概論の講義をされた期間は、かなりに長い。

先生の日記を開いてみると、明治四十三年九月二十二日(木)のところに、「けふより始めて哲学概論を講ず、」とあり、また昭和三年二月四日(土)のところには、「哲学概論を終る、これにて義務講義は終了か。心身の軽きを覚ゆ。今後は全く一私人となつて唯〔だ〕吾思想の発展に従事、」とある。つまり先生は、明治の末年から昭和の初頭にかけ、殆ど二十年に亘つて、哲学概論の講義を続けてこられたのである。ところが先生の「善の研究」の出版は明治四十四年一月であり、また「働くものから見るものへ」の出版は昭和二年十月であるから、先生の哲学概論の講義は、「善の研究」の出版より数ヶ月早く始められて、「働くものから見るものへ」の出版より数ヶ月以後まで続けられた訳である。言ひ換へれば、先生の哲学概論の講義は、まづ「善の研究」に於ける純粋経験の立場を以て始められ、次に「自覚に於ける直観と反省」の自覚の立場を経て、終りに先生の最も独創的な場所の立場――それは「働くものから見るものへ」以後に属する、――にまで及ぶのである。

してみれば当然のことであるが、先生の哲学概論の講義には、それに対応して三つの時期のものが区別され得る訳であり、事実、私が見ることを得た先生の講義の筆記のノートも、三つの時期に大別され得たのである。第一は、明治の末年から大正の初期にかけての純粋経験の立場のもの、第二は、それに続く大正年間に於ける自覚の立場のもの、第三は、大正の末年から昭和の初頭にかけての、既に場所の立場が窺はれ得る時期のものである。そして私は、先生の講義の最も円熟した頃の面影を伝へてゐるものとしてこの第三の時期の講義を選び、――もう少し正確に言へば、大正十五年及び昭和二年度の講義を標準として、――十冊に余る友人諸君のノートを、彼此考量して整理した結果が、この書である。その整理の経緯については、詳しくは西田幾多郎全集別巻四の後記に掲げた拙文を参照されたい。

尤も、先生の哲学に対して関心を寄せられる人は、先生の最初の純粋経験の時代に於ける講義や、またそれに続く自覚の時代に於ける講義についても、その大体を知りたく思はれるであらう。ところが幸ひ、純粋経験時代のものについては、恐らく明治四十三年頃のものと推定される先生の講義のための手控のノートが先生のお宅に保存されてあつた。その最も重要な部分をなるべく原型を保存しながら整理したものが、附録第一、第二、第三である。その際、( )は、先生のノートにある先生自身の括弧、〔 〕は、先生のノート左頁にある註或は書込みを、私が適当と思はれる箇所に挿入したもの、〈 〉は、私が仮に与へた訳語である。なほ subj. obj. 等々、ノートに先生自身略語で記されてゐるものも、特に必要のない限り、主観、客観等の語に改めておいた。「善の研究」は、最も多くの人々によつて読まれるものであらうが、同書に於ける純粋経験についての説明は、必らずしも理解し易いものではない。ところがこの附録に載録した先生の講義は、かなりに平明であり、また詳細である。「善の研究」を読まれる人々は、是非この部分を参照して頂きたい。そして附録の第四は、大正十三年度の講義筆記の一部であり、最も明瞭に自覚の立場を示してゐるものである。従つて本書の本文と附録とを丁寧に読まれるなら、先生の最初の純粋経験の立場、次の自覚の立場、更には晩年の場所の立場がそれぞれにどのやうなものであるか、また何故一つの立場から次の立場に深化されて来たかの理由も理解されるであらうし、しかもまたこのやうな立場の深化にも拘はらず、一貫して変らない先生の基礎経験ともいふべきものがどのやうなものであるかも、自から了解されることであらう。かかる意味に於て、本書は先生自身の口を通じて語られた最も信頼さるべき西田哲学入門であると云はれてよいと思ふ。

このやうにしてこの書は、確かに一面に於ては、先生自身による先生の哲学への入門書とも解し得るのであるが、しかし先生の哲学概論は本来、単に哲学専攻の学生のためにではなく、文学部の一般の学生のために講ぜられたものであり、それのみか先生の教室には川上肇氏を始め、他学部に属する教授また学生、さては三高あたりの若い学生の顔すら見受けられた。恐らくさうしたことも自づと先生に反映してゐるのであらうが、この先生の概論の講義は、第一に極めて平明である。先生の専門の哲学上の論文が、恐ろしく難解と云はれてもやむを得ないのに反して、この講義は、一読されれば明かであるやうに、至つて平易である。意外な程に平明である。また第二に、この概論の講義は、これまた意外なほどに客観的である、公平である。先生は云ふまでもなく極めて独創的な思想家である。ところがこの講義に於ては、先生は種々なる哲学上の立場に対して十分に批判的でありながら、しかもそれぞれの立場を正しく評価し、決して先生自身の主張を押しつけようなどとはしてゐられない。だから先生の場所の立場の如きも、かなり注意して読まなければ、見落しかねない程に慎ましやかに語られてゐるに止まるのである。この客観性も、恐らく多くの人にとつては意外な程であらう。しかもなほ第三に、この講義は現代に於ける種々なる哲学上の立場を、組織的に且つ周到に網羅してゐる。無論現在から見れば、キェルケゴールに始まる実存哲学に関する一節が附加されてあることが望ましいであらう。そして先生自身、キェルケゴールには深い関心を寄せてゐられた。しかしまだ実存哲学といふ言葉さへ現はれてゐなかつた当時にあつて、かかることを望むのは、望む方が無理といふべきであらう。だからもしこれら一二の点を補ひさへすれば、この講義は今でもやはり立派な、現代哲学への入門たる資格を備へてゐるのである。

直接に先生の講義を聴いた多くの人々の言葉がそれを裏づけてゐるやうに、先生の講義は、哲学することそのこと、思索することそのことを、身を以て示してゐられる底のものであつた。そしてそれは、静かに教壇の上を歩まれながら、或る時は先生自身が冥想に耽り、また或る時は聴講者達と討論されてゐるかのやうな、先生の態度を通じて沁み出るものであつた。私のこの講義の整理は、もとよりかかる印象を伝へ得るものではない。しかしせめて先生の講義の内容をほぼ誤りなく復元し得てゐるならば、何よりの幸である。