西田幾多郞著『哲學槪論』 附錄第三 形而上學はいかにして可能か

形而上學はいかにして可能か

形而上學に入る前に、形而上學は可能なりやの問題を論ぜねばならぬ。

懷疑論や批判主義では、經驗以上のことを知らうとする形而上學の如きものは不可能であるといふ。若しさうならば哲學は認識論と科學方法論といふものになつてしまふ。 Ontology〈存在論、本體論〉といふ樣な實在その者(Sein als solches)の學問はなくなつてしまふことになる。併しこれも實在といふことの考へ樣に由ると思ふ。實在といふものが超越的なるものであつたならば、カントなどの立場からして實在は不可知といふ如きことも云へるであらう。否、嚴密に云へば不可知といふことも云はれぬことになるであらう。併し認識論の處にいつた樣に、現在の經驗その者が實在であつて、認識といふことが已に此の經驗の上に起る出來事であるといふ樣なことになれば、此の現在の經驗その者を理解するのが卽ち形而上學であるといふことになる。カント以前の形而上學の樣に、經驗の形式を超越的な物自體に適用する樣な形而上學はできないかも知らぬが、經驗その者を實在とする形而上學ができることになる。〔notwendige Beziehung von Sein und Sollen in der Tathandlung. Ohne Sein, kein Erkennen, zwei Seiten. 〈事行に於ける存在と當爲の必然的關係、存在なくば認識なし、二側面〉〕カントの建てた批判哲學の基礎の上に、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどの形而上學がたてられたのである、(つまり前の哲學は存在を Substanz〈實體〉と考へて居たが、之を Geschehen〈出來事〉と考へねばならぬ)。卽ち inner reality〈内在的實在〉の形而上學ができるのである。フィヒテ以後の哲學は、尚超越的である。

かういふ意味に於て此の present reality as such〈現在的實在そのもの〉のかかる一般的性質を論ずる形而上學が可能であると思ふ。我々の經驗には、自然とか精神とか種々あるが、經驗としての共通の性質がなければならぬ。卽ちそれを論ずるのが實在の根本原理の學としての形而上學である。


此の如き意味に於て實在の硏究法に就いて、個々の事實の硏究より出發して一般的原理に綜合するといふ人がある。固よりそれも必要であらうが、實在そのものとしてその一般的性質を知るには、必ずしもその一々の變化を硏究せずとも、一の實在その者の性質を introspective〈内省的〉に硏究すればよい。形而上學は科學的原理の總括ではない。科學はそれぞれに實在の一面の硏究である。形而上學は具體的實在そのものの硏究である。


前の樣にいふと此處に一つ疑が起るのは、さういふ形而上學は名は異なつても認識論と同一のものでなからうかといふ疑問である。しかし認識論は認識の成立、性質等々を論ずるのであり、今いつた樣な形而上學では knowledge=reality となるのである。或點に於ては確に兩者が合するといふこともあるであらうが、又全然此の二者を同一にすることもできぬと思ふ。

同一の實在であつても、之を實在そのものとして見るのと之を知識として見るのと、その見方が違ふと思ふ。

元來認識論は ratio cognoscendi〈認識根據〉の學であつて ratio essendi〈存在根據〉の學ではない。哲學の出立點としては認識論より始めるが、説明の上から云へば逆になるのである。 reality〈實在〉が knowledge〈知識〉となれば、その原理の上から知識を説明してくることになる。卽ち形而上學は認識論の尚一層根本原理を論ずることとなる。〔哲學史の方では形而上學が先に起る。〕


そこで、カントの批判を經ても形而上學はやはり可能であるとして、ではどういふ風に形而上學を區別したらよいか。

形而上學を區別するには、先づその根本原理の數に由つて monism, dualism, pluralism〈一元論、二元論、多元論〉と分つ。かく數に由つて分つといふことは一見甚だ皮相の樣ではあるが、此の上に哲學の種々なる特徵が現はれるのであらうと思ふ。例へば原理や統一を重んずる人は一元論を理想となし、事實を重んずる人は多元論に傾く。(スピノーザ、ヘーゲル、ヂェイムズの如し。)感情の激しい人で自分の精神内に矛盾を感ずる樣な人が二元論となる。(アウグスチーヌス、ショーペンハウエルの如し。)形而上的原理の數といふことは、論理的構造、學的性質の上のみならず、人生觀の上にも大なる相違を來すであらうと思ふ。


次に根本原理の性質である。實在の中で最も根本的な相違のある者と見えるのは精神と物體である。それで此のいづれを以て根本原理とするかによつて形而上學の大なる區別ができてくる。物體を以て原理とするものが Materialism〈唯物論〉で、精神を以てするのが Spiritualism〈唯心論〉(又は Idealism〈觀念論〉)である。勿論その外スピノーザの實體の樣に精神、物體以外に之を包含する一の原理を立てる人もあるのであるが、我々人間の考へる實在の性質は物體と心の外に出ることはできぬ。何等かの積極的性質をいひ得るとするならば、必ず此の二つのいづれかに入らねばならぬと思ふ。〔スピノーザの如きは機械論的であり、ヘーゲルの如きは目的論的である。〕〔機械論的と目的論的といふことは、物質と心の對立と關係してくるであらう。〕〔神と世界の二元論はいかに見るべきであるか。(kosmologich〈宇宙論的〉?)神は超越的精神である。哲學の上に新しい説明の原理があるのではない。 quality〈性質〉ではなく、 degree〈程度〉の上の二元論である。〕

〔三つにした方がよい?〕


次に實在發展の方式について二種の考へ方がある。(statical〈靜的〉と dynamical〈動的〉である。)

statical monism といふのはスピノーザの樣に萬物を唯一實在の樣態となすのである。本體は湛然不動となすのである。之に反し dynamical monism といふのは實在を發展となすのである。現今の Monismus des Geschehens といふのは此の中の一種と見るべきである。


それで此の原理とその數よりして種々の形而上學ができる。

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