西田幾多郞著『哲學槪論』 第三編 形而上學

第一章 形而上學について

形而上學が纏つた一つの體系として出來たのは、アリストテレースが始である。尤も形而上學の問題はアリストテレース以前からあり、それは眞實在 reality, Wirklichkeit を求めることであつた。形而上學とは眞實在の學問である。從つて、形而上學とは狹義に解せば、存在そのものの學、卽ち存在論 Ontologie であると云つてよい。 ὄν とは das Seiende の意味である。アリストテレースが、哲學者が問題とするのは存在そのもの das Seiende als Solches であると云つたのはそれである。アリストテレースは、普通に存在と呼ばれてゐるものは、物質にせよ、魂にせよ、皆特殊な存在であるのに反し、存在そのものを明かにしようとしたのである。

しかしアリストテレース自身は形而上學といふ言葉は使つてゐない。アリストテレースはその代りに第一哲學 the first philosophy, die erste Philosohpie, πρώτη φιλοσοφία といふ言葉を使つてゐる。ところが紀元前一世紀の頃、アンドロニコス Andronikos von Rhodus がアリストテレースの著作を編纂した場合、第一哲學にあたる部分を物理學 φυσικά の後に置いたところから第一哲學のことを τά μετά τά φυσικά と呼び、それからして單に物理學の後のものといふ以上に物理學以上のものといふことになり、經驗以上のもの、超感性的なものを對象とする學問を、廣く形而上學 Metaphysik と呼ぶに到つたのである。從つて形而上學とは、狹義には存在そのものの學卽ち存在論であるが、廣義では宇宙論 Kosmologie や神學 Theologie をも含み、超感性的なものの學を意味するのである。そして形而上學とはかかるものとして哲學の中心をなすと考へられ、カントにまで來たのである。

ところがカントに到つて、形而上學がはたして學として可能であるかどうかといふことが問題とされた。カントはかう考へた。我々の認識はすべて先驗的形式によつて感覺的内容を統一したものである。從つて經驗的認識を構成する先驗的形式卽ち範疇を經驗以上のものについて當てはめることはできまい。ところが形而上學が明かにしようとするところは、實在は一であるか多であるか、神は存在するかしないか、といふやうな經驗以上の事柄であるから、かかる經驗以上の問題について經驗の範疇を引伸して論ずることは不可能である。そのやうなことをすれば、例へば世界には始があるともいへ、また始がないともいふやうな二律背反に陷る。つまり形而上學は二律背反に陷るから形而上學は學としては不可能である。これがカントが彼の transzendentale Dialektik 〈先驗的辯證論〉で主張するところなのである。かくて近代の哲學は、形而上學は不可能であるといふ傾向に傾いてきてゐる。

しかし私は必らずしもさうとは考へない。なるほどカント以前の形而上學はカントによつて壞されたかも知れぬが、實在といふことの考へ方如何によつては、形而上學はやはり可能だと思ふ。カントにも物自體 Ding an sich といふ考は殘つてゐるのであり、我々が何ものかを知るといふ時に、知られる何ものかがなければならない。認識論よりも形而上學が先決問題だと云つてよい。ロッチェなぞもそのやうに考へてゐる。古い形而上學は成立しないかも知れないが、存在そのもの das Seiende als Solches の學としての形而上學は成立し得ると思ふ。では das Seiende とはどのやうなものであるか。

das Seiende とは如何なるものであるか。これがまづ考ふべき問題であるが、アリストテレースはこの問題を彼の形而上學第七卷に於て論じてゐる。この第七卷は彼の最も圓熟した思想を載せてゐるものであるが、その第三章に於て實體 οὐσία, substance について四つの意味を區別してゐる。ロス Ross の英譯によれば次の如くである。

1. essence 2. universal 3. genus 4.substratum

まづ universal とは一般的なるものの謂であり、赤一般といふやうにプラトンのイデヤの如きものである。數の如きも universal であらう。次に genus とは類であり、人間とか動物とかいふ如きものを意味する。要するに universal と genus とは共に普遍的なるものであり、云はば永遠なものであり、ほぼ同じものなのである。

ところが問題は essence と substratum にある。 essence とは τὸ τί ἦν εἶναι であり、直譯すれば That which was to be であり、ボーニッツ Bonitz は Wesenswas と譯してゐる。云はば「あるべくあつたもの」であり、時間を越えながら時間の中に現はれてゐるものであり、またアリストテレースはそれを定義 ορισμός, definition を有つたもの、從つて他と區別されてこの唯一のものとして規定され得るものと考へてゐる。從つて essence とは唯一のものであるといふことを推しつめて行けば、唯一なるもの、他と區別された獨自のもの、卽ち個物といふことになるであらう。ライプニッツのモナドの考はそれに近いのである。ところが substratum 卽ち基體とは判斷の主語となつて述語とならぬものとアリストテレースは規定してゐる。例へば「この花は赤い」といふ時、實體はこの花として主語の位置に立つ方向にあり、赤いといふ述語は單に屬性であつて實體ではない。性質とか働きとかいふものは實體の性質や働きであつて實體ではない。ギリシャ人が實在といふものを考へる時、判斷の構造を手引として考へてゐることは興味ある着眼點だと思ふが、アリストテレースは實體とは基體であり、判斷の主語となつて述語とならぬものと考へたのである。

ところがそのやうに考へてくると essence と substratum とは結びついてくる。ト・チ・エン・エイナイ卽ち「あるべくあつたもの」卽ち本質とは定義を有つたもの、唯一なもの、どこまでも自分で自分を限定するものであらうが、それはスブストラトム卽ち基體としてどこまでも判斷の主語となつて述語とならず、自ら自己を述語するものと合致してくるからである。かくてこのやうにト・チ・エン・エイナイであつて同時にスブストラトムであるものが存在そのもの das Seiende als Solches なのである。

これは存在そのものを考へる上で重要なことである。今私は、ギリシャ人は判斷を手引として實在を考へたと云つたが、このアリストテレースの實體についての定義は、古代から中世を通じて認められる。デカルト以來、實體とは己れ自らによつてあり、己れ自らによつて理解されるものと定義されたが、ここにもアリストテレースに通ずるものがあらう。しかしデカルトの己れ自らによつてあるといふ自己因 causa sui の考へには、因果性の考へが入つてゐる。近代自然科學の原因結果の考へに通ずるものが入つてゐる。ヴィンデルバントは reflexive Kategorien 〈反省的範疇〉と konstitutive Kategorien 〈構成的範疇〉とを區別したが、デカルトが實體を自己因と考へる場合にも、構成的範疇としての因果性の範疇で考へてゐる面がある。否、總じて近世の形而上學は實體をそのやうな方向から考へ易い。しかしそのやうな考へ方は狹いのであり、カントの批判に耐へ得ないであらう。これに反しアリストテレースのやうに判斷の構造から、主語となつて述語とならぬものといふ風に實體を考へて行けば、新らしい形而上學が可能になるのではないか。原因結果の考へ方では、經驗以上のものに及ぶことはできないのではないか。

形而上學の分類について――。古來樣々の形而上學があるが、大きくは二つの類に分けて考へることができる。

a 存在の量 die Quantität des Seienden によるもの。これは存在するものの數による分類であり、
 1 Singularismus
 2 Pluralismus
 3 Dualismus
の三つになる。次は
 b 存在の質 die Qualität des Seienden による分類であり、
 1 Materialismus
 2 Spiritualismus
 3 Monismus
の三つである。

第二章 存在の量

存在の量 Quantität des Seienden といふ見地から形而上學を區別すれば、次の三つに分れる。
 1 Singularismus
 2 Pluralismus
 3 Dualismus

從來、一元論と云へば Monismus のことだとされてゐるが、 Monismus は歷史上むしろ存在を質の上から考へて、實在とは精神と物質のいづれでもないものであることを主張するものと思はれるから、 Monismus といふ言葉は存在の質 Qualität des Seienden を論ずる場合に使ふことにする。それに對し、存在を量の上から考へて、實在は一なるものであるとする意味の一元論は、それを Singularismus と呼ぶことにしよう。 Singlarismus はラテン語 singularia から出た言葉であるが、ギリシャ語の ἕν から出た Henismus といふ言葉を用ひてもよい。

尤も、このやうに實在するものをその存在の量の上から考へて、それが一であるか、多であるか、對立する二であるかといふことを問題にし、その點から形而上學を分類することは、形而上學の本質にとつて二次的のことではないかとの疑問もあらう。しかし實はさうではない。直ちに示されるやうに、そのことは形而上學の對象をなす實在そのものの本質に觸れてゐるのである。一元的か多元的かといふことは、形而上學の本質的な區別をなすのである。それぞれの哲學者の人生觀とか個性とかいふ點からしても、それは明瞭であらう。例へばスピノーザのやうに瞑想的な人は一元論となり、靈肉の對立に惱む人、例へばアウグスチヌス、ショーペンハウエルの如き人は二元論となる。それらの人々にとつては善惡の葛藤が問題であるが、一元論の立場の人にとつてはそのやうな對立は一者のうちに解消する。また多元論の立場の人々、例へばライプニッツやヂェイムスの如き人々にとつては、各人の個性の實現、發揮といふことが人生の理想となる。このやうに量的世界觀の決定と、それぞれの哲學者の人生觀また個性とは互に深い内面的關係を有つてゐるのである。

第一節 一元論

まづ一元論について考へてみよう。一元論とは畢竟、すべての實在は一なるものに歸するといふ主張なのであるが、實在をどう定義するかといふことで、一元論にも種々なる種類が區別される。

一、一つはギリシャ哲學に於ける一元論である。先にアリストテレースの實體の定義の一つに、「實體は普遍的なもの universal である」とする考へがあることを述べておいたが、ギリシャの一元論は大體この考へを押進めたものと云つてよい。つまり實在を特殊と普遍の關係で考へ、普遍的な性質を有つものほどより一層實在的であるとし、特殊的な性質は實在の眞の性質ではないとするのである。例へばエレア學派のパルメニデスはその代表的なもので、すべての存在するものを含んだ最も普遍的なものは、有 Sein あるのみとするのである。プラトンがイデヤを實在と考へるのも普遍的な性質のものを實在と考へるのであり、種々なるイデヤを統一する善のイデヤ Idee des Guten が最高の實在と考へられるのもその爲である。しかしプラトンでは一元論は徹底されてゐない。またアリストテレースは思惟の思惟 Denken des Denkens としての神を考へるのであるが、そこでも思惟する思惟と思惟される思惟とが對立すると考へられるから、一元論としてはやはり不十分である。アリストテレースは個體の考へを押進めて實體としての神にまで達しようとするのであるが、上述した意味でなほ不十分である。これに對し、ギリシャ哲學で最も徹底した一元論は、新プラトン學派のプロチーヌスであり、彼は眞の實在は一者 das Eine であるとした。

二、しかし近世に到ると眞の實在を究極原因と考へる立場から、違つた形の一元論が現はれる。その最も徹底したものはスピノーザで、彼は眞の實體卽ち神は己れ自らが自己の存在の原因であるところのもの、卽ち自己因 causa sui であるとした。彼にとつて思惟と延長はかかる唯一實體の二つの屬性にすぎないとされ、またすべての個體は唯一實體の種々なる樣態であり、云はば神といふ大海の上の生滅する波の如きものと考へられたのである。スピノーザ主義が近世に於ける最も徹底した一元論である。

批評。しかしこのやうな一元論は、一方からすれば究極の實在を求めるといふ形而上學の要求にかなふものであるけれど、他方からすれば、それが徹底されればされるだけ色々な問題が起つてくる。例へば、唯一實在からいかにして多なる現象が現はれるかといふ疑問がそれである。一元論の立場からしては、多なる現象は畢竟 Illusion 〈迷妄〉といふの外はないであらう。では迷妄はどこから起るか。迷、惡、多、かうしたものも神の屬性として神のうちに含まれてゐるのか。これが一元論の弱點である。

第二節 多元論

多元論 Pluralismus とは、實在を量的に多であると考へるものである。しかしそれにも實在の考へ方によつて種々なる相違がある。

一、ギリシャに於ける多元論の代表的なものは、デモクリトスのアトミズムである。それは實在の構成要素を無限に多くのアトムであると考へるものである。しかしそれぞれのアトムが空間的に異つた性質を有つとする點で、近世物理學のアトムの考へ方とは直ちに同一ではない。ギリシャのアトミズムは性質的なものを實在的と考へるのだから、その點アトムをどこまでも數量的に考へようとする近世のアトミズムとは異るのである。

尤も近世に到つても、性質的なものを實在と考へる考へ方がある。ヘルバルトが die Realen と呼んだものがそれで、ヘルバルトは物の性質を實在と考へ、性質的なもの、特に尤も單純な性質 die einfache Qualität をそれぞれ die Realen と考へ、宇宙はかかる die Realen から成立するとした。しかしこのやうな die Realen 〈實在者〉が集つて宇宙を構成するためには、そこに何か空間的なものがなければならない。しかしそのやうな空間的なものは、性質的な die Realen 〈實在者〉の場所であるから、所謂物理的空間であることはできず、それがヘルバルトの所謂叡智的空間 der intelligible Raum なのである。

二、しかし性質的なものといふより原因的なもの、力をもつたものを實在と考へる考へ方からしても多元論が成立し得る。例へば今日の物理學でいふアトミズムはそれである。しかしアトム的なものは單に物質的にのみ考へられる必要はない。アトムとは不可分割者の意味であらうが、空間的なものはすべて可分割的であるのに對し、眞に不可分割的なものは精神的なものであらう。ここからしてライプニッツは眞にアトム的なものは精神的なものであると考へ、それをモナドと呼んだ。モナドとは、云はば spiritual atom なのである。

批評。かくて多元論は丁度一元論と正反對の立場である。しかし多元論にはまた一元論と反對の困難がある。それは、一元論の困難は、眞實在である一者からいかにして現象の多が出るかといふ點にあつたのに對し、多元論の困難は逆に、いかにして多なる現象が相互の關係し、統一されるかといふところに問題があるからである。多元論は宇宙の變化と差別を説明するのに便利であるけれど、それらの諸現象がいかにして相互に統一されるかといふことは多元論の立場だけでは説明が困難であり、その説明のためには何かの統一原理を豫想しなければならないのである。例へばアトミズムではアトムとアトムとの關係は空閒に於て成立すると考へる。しかし空間そのものは決して多なるものではなく、すべてのアトムの場としての一なるものであらう。またライプニッツは、モナドは窓がなく、相互に全く獨立した個體であるとするのであるが、モナドとモナドの關係はいかにして可能であるか。ライプニッツはそれを豫定調和 praestablierte Harmonie の原理で説明しようとする。しかし單に豫定調和といふだけでは獨斷的であり、十分の説明にはなるまい。要するに多元論の立場は結局何かの形で一元的な統一原理を認めなければならず、その際、多なるものが根源的か、一なるものが根源的か、といふ問題が起つてくる。それが多元論の難點である。

このやうに一元論も多元論も共に難點があるのであるが、思ふにそれは一と多は別のものではなく、眞實在は一にして多、多にして一であることに基づくのではないのか。既に「認識の起源」に關し、神祕主義の場所で話しておいたやうに、神祕主義の立場は一にして多、多にして一なるものの立場である。プロチーヌスの思想には餘程かかる考へ方が現はれてをり、プラトンの晚年の思想にもかかる考へ方が認められる。近世ではヘーゲルの考へがそれに最も近い。眞實在は一にして多、多にして一、動にして靜、靜にして一なる動的統一 dynamische Einheit である。

第三節 二元論

二元論 Dualismus とは、實在の根本原理を相反した二つの原理と考へるものである。二元論も實在を單一なものとは考へないのだから、一元論ではなく多元論の一種とすることも許されようが、實在は單に多なる原理から成立するといふのではなく、特に互に對立した二つの原理から成立するとする點で、別に論ずる方が便利であらう。二元論にも色々な種類が區別される。

一、ギリシャ哲學に見られる二元論は形相と質量の二元論である。前に話しておいたやうに、ギリシャ哲學では普遍的なものが實在と考へられ、普遍的なものは形相 Form であるから、形相が實在と考へられる。プラトンのイデヤはそれである。しかしギリシャ哲學にも逆の考へ方があつた譯であり、特殊的なもの卽ち質量 Materie が却つて實在とも考へられる。デモクリトスのアトミズムがそれである。かくてギリシャ哲學では形相と質量の關係が物大とされたのであり、プラトンもイデヤを眞の實在と考へる一方、イデヤが現實化するためには質量がなければならないとした。しかしプラトンでは形相と質量の關係は十分に明かになつてゐない。その關係を深く問題としたのがアリストテレースである。アリストテレースはすべてのものは形相と質量から成立するとした。例へば「家屋」といふ存在をとつて考へてみれば、家は石や材木といふやうな材料 Materie を、建築家の頭のなかにある意匠 Form によつて組立てたものである。この家屋の場合のやうに、人工物では形相と質量とは一應獨立して存在してをり、後から結びつけられたと考へられるが、自然物では本來一つのものが形相と質量の結びつきとして存在してゐる。例へば樫の實――それは Materie と考へられてよい――が自から成長して樫の木の形相 Form を現ずるが如くである。アリストテレースは一つのものの潛在的 Potential な方向を質量と考へ、顯在的 actual な方向を形相と考へたのである。アリストテレースはすべてのものが形相と質量とから成立するとした點で、二元論であつたと云つてよい。

このギリシャ哲學に由來する形相と質量との二元論的な考へ方は、中世哲學を通じて維持されてゐる。尤も中世哲學はキリスト敎と緊密に結びついてゐるから、ギリシャの存在論的な考へ方は、宗敎的、倫理的な調子のものに變つてゐる。卽ち形相は叡智的、精神的なものであり、質量は感性的、肉體的なものであり、そして精神は善、肉體は惡と考へられた結果、形相は善、質量は惡と結びつき、善惡の二元論になつてゐるのである。

二、これに對し、近世哲學に於ける二元論は、精神 Geist と肉體 Körper の對立としての二元論である。かかる精神と肉體の二元論は、まづデカルトによつて明瞭に説かれた。彼は實體 substance に二種類を分ち、一次的實體と二次的實體とにした。 primary substance 〈一次的實體〉とは神であり、 secondary substance 〈二次的實體〉とは精神と物體の二つである。ところが精神とはただ cogitatio=Denken ――それは廣く意識を意味する――のみを有つものであり、物體とはただ extensio=Ausdehnung 卽ち延長を有つだけである。しかも思惟と延長とは全く性質を異にすると考へたから、デカルト哲學は精神と肉體の二元論になると云つてよい。

カントに到つてこのやうな形而上學は棄て去られた。しかしカントの認識論では我々の認識はすべて先驗的形式と感覺的素材とから成立するとされてゐるから、カント哲學は形式と素材との二元論である。

批評。二元論は廣い意味では多元論の一つだから、多元論と同樣の困難に出會ふ譯である。卽ち、すべての實在は二元に歸するとすれば、この相反した二つの原理は、互にいかにして關係するかといふ問題である。これは上述したどの二元論にも等しく向けられる難點である。

例へばアリストテレースはこの困難を脱するために、形相を actual 〈顯在的〉質量を potential 〈潛在的〉とし、すべての實在は dynamical 〈動的〉なもの、發展的なものと考へた。すべての實在は潛在的から顯在的へと動くものだと考へたのである。しかしアリストテレースでも、まだその問題は十分の解けてゐるとは思はれない。またその考を徹底して行けば、プロチーヌスのやうに、動的汎神論 dynamischer Pantheismus になる筈のものであらう。中世哲學でも同樣に善と惡の關係の問題が根本の問題となる。もし世界が神の創造だとするならば、いかにして世界の中に惡が發生することができたのか。これは極めて困難な問題であらう。この問題を最も深く考へたのは近世初期のヤコブ・ベーメであり、彼は神の本質が現はれるためには惡が缺き得ないとし、神のうちには惡も存在すると考へたのである。

近世哲學では、デカルトが殘した心身の關係の問題が、哲學上の主要な問題になつた。デカルト學派の人々、特に Occasionalism 〈偶因論〉の人々の中心の問題はそれであつた。偶因論の代表者はゲーリンクスやマールブランシュであるが、彼等は精神と肉體とは各〻獨立の實在であり、その間には直接の關係は存し得ない。兩者の間に直接の關係があるやうに見えるのは、神が關與することによつてであるとした。卽ち神が肉體に於ける變化を偶因 occasion とし精神を調整し、また逆に精神に於ける變化を偶因として肉體の運動を變化させるとしたのである。しかしこのやうに、神自身が心身の間を媒介するといふ考へを押進めれば、結局、すべては唯一の實體たる神の表現であるといふスピノーザの哲學に歸着するであらう。 Dualismus は Monismus に歸着するのである。つまり二元論の困難は統一の問題にあり、この統一の問題を解決しようとすれば、二元論は二元論に止まり得ないのである。

附。 Finitismus と Infinitismus

量的世界観の分類について、ヴィンデルバントは更に Finitismus と Infinitismus との區別を立ててゐる。大體ギリシャ人は具體的なもの、可視的なものを尊ぶところから、實在するものは形のあるもの、完結したものと考へた。從つてギリシャ人は實在するものは有限なものであるとし、宇宙も有限なものと考へた。無限なるものは却つて非有とされたのである。このやうに世界がその存在の量の上からみて限界があるとするのが Finitismus である。

ところがルネサンス以來、宇宙は神の現はれであり、神は無限であるから、宇宙も無限であり、眞に存在するものは無限なるものであるとされた。實在は存在の量の上からみて無限だとするのが Infinitismus である。尤も近世に於ても Finitismus の立場をとる人があり、デューリング Eugen Dühring 1833 - 1922 や新カント派のルヌーヴィエ Charles Renouvier 1815 - 1903 がそれである。

第三章 存在の質

形而上學の諸學説は實在の根本原理をどのやうな性質のものと考へるか、卽ち存在の性質 Qualität des Seienden をどう考へるかといふことで、
 1 Materialismus
 2 Spiritualismus
 3 Monismus
の三つに分れる。

第一節 唯物論

まづ唯物論 Materialismus とは物質的なものを眞實在と考へるものである。この考へ方は常識的な考へ方に近いものであるが、ギリシャの昔から有力な哲學體系として現はれてゐる。例へばデモクリトスは、物とは元來空間的な形を有つたもので、空間に於て運動するものと考へた。彼は物質的なアトムを實在の根本原理とし、すべての現象をアトムの離合集散によつて説明しようとした。デモクリトスは唯物論の祖であると云つてよい。ストア學派の人々も形而上學としては唯物論の立場に立つのである。

しかし唯物論が盛んに説かれたのは、十八世紀のフランスと十九世紀中葉のドイツとに於てである。十八世紀の代表的なフランスの唯物論者はラメトリ Lamettrie 1705 - 51 で、彼の著書「人間機械論」 L'homme machine, 1748 は有名である。彼はもとデカルト哲學から出て、唯物論に移つた火とである。彼はデカルトが精神と肉體の二元を認めた考を推しすすめ、精神現象はすべて物質現象を伴ふといふところから、精神の根柢は物質であり、總じて實在の根柢は物質であるとしたのである。カバニ Pierre Cabanis 1757 - 1808 の如きもその流を汲むものである。大體十八世紀のフランスは啓蒙主義の時代であり、自然科學が非常に發達した時代であるが、フランスの唯物論はその傾向の産んだ産物である。

ところがこのやうな啓蒙主義の運動は、十九世紀に入つて強い反動を呼び起した。それは特に顯著には、ドイツ觀念論の哲學や、ドイツ浪漫主義の文學に認められるのであるが、自然科學が無條件的に主張されることに制限を加へ、それによつて道德、藝術、宗敎の立場を擁護しようとしたものである。かくて十九世紀の初頭はドイツ觀念論の哲學の全盛期になる。しかしドイツ觀念論の浪漫主義的な哲學はその發達の極、却つてそれ自らのうちから崩壞し初め、それに代つて唯物論が盛んになる。それには、自然科學の異常な發達、ドイツ國民の物質的隆盛等も外的原因として作用してゐるのであらうが、とにかく十九世紀中葉のドイツでは極端な唯物論が盛んに説かれたのである。その代表者としては、ビュッヒネル、フォークト、モレショット、フォイエルバッハ、マルクス等を擧げることができるであらう。

唯物論の歷史は大體以上のやうなものである。しかし唯物論が主張される論據からすれば、次の四つに分けて考へてよい。

一、形而上學的な論據によるもの。(形而上學的唯物論 metaphysischer Materialismus )

凡そ存在するものは、すべて空間に於て存在する。空間を離れては存在は考へられない。ところが空間に於て存在するものは物質的なものであるから、物質が眞の實在であるとするのである。例へば精神現象は肉體なくしてあり得ず、畢竟、物質現象なくしてはあり得ないであらう。それに反し、物質現象は精神現象なくしてもあり得る。つまり物質は精神よりも根本的であり、物質が眞の實在だと云ふのである。これが形而上學的な論據による唯物論であり、デモクリトスの唯物論、ホッ附子の唯物論も大體このやうな論據に基づく唯物論だと云つてよい。なほマルクスの唯物論もある意味では形而上學的唯物論に數へてよいが、ややこれとは論據を異にするから、別に論ずることにしよう。

二、人間學的な論據によるもの。(精神現象は肉體現象と相伴ふといふ考へを基にした唯物論。人間学的唯物論 anthropologischer Materialismus )

精神現象は物體現象と相伴ふものである。このことは近來、生理學、精神病學、心理學の硏究が進むにつれて益〻確かめられ、心身の間の密接な關係が明かにされてきた。かくて我々の精神は結局、腦の働きに歸せられるとするのであるが、普通に一般の人々が唯物論と呼んでゐるものはこの種のものであらう。この種の唯物論の端緖は、もとデカルトにあると云つてよい。デカルトは唯物論者ではないが、その情念論 Les passions de l'âme に於ては、人間の情念を生理的に説明してゐるとも解される。それは結局精神の機械觀的な説明に近くなるであらう。先に述べたやうに、ラメトリやカバニはその考を推し進めたものであらう。ラメトリの唯物論では、精神現象は物體現象の隨伴現象にすぎずとされ、モレショットやフォークトに到れば、腎臟が尿を分泌するやうに、我々の思想は腦の分泌物だとされた。モレショットは、「人間とは兩親、食物、空氣、音、等々の和にすぎない、」と云つてゐる。

三、宇宙進化論的な論據によるもの。(精神は宇宙進化の結果、物質から發生したといふ理由によるもの。宇宙論的唯物論 kosmologischer Materialismus )

カント、ラプラスの星雲説によれば、宇宙は始め星雲から發展してきたものであると云はれる。この学説が現在なほ正しいかどうかは別として、宇宙の始源は物質的なものであり、萬物は悉く物質から宇宙進化によつて生じたものであらう。これは大體多くの自然科學者が認めるところであらう。してみれば精神も宇宙進化のある段階に於て、物質から發生してきたものであらう。卽ち精神現象の起源は物質なのである。これが宇宙論的唯物論である。

四、エネルギー恆存律を論據とするもの。(機械的唯物論 mechanischer Materialismus )

ロバート・マイヤーやヘルツホルム等のエネルギー恆存律によれば、エネルギーは不滅であり、また物質的エネルギー以外の力を許すことはできない。物質的な力以外に精神的な力 mental force を認めることは、エネルギー恆存律を破ることである。從つて精神現象は物質的エネルギーが變形して、その一つの相として現はれたのにすぎないとするのである。以上四つの論據のうち、重要なのは一と二とである。

次にこの四つの立場を、唯物論を主張する程度の如何、卽ち極端な唯物論か穩和な唯物論かといふことで區別すれば、次の三つになる。

一、その最も極端なものは、全然精神現象といふものを否定し去り、精神現象は物質現象の一種にすぎないものとするものである。フォークトなぞが、思想は腦の分泌物であるとするのはそれである。

二、次は精神現象の存在はそれを認めるが、しかし精神現象は物質現象に依存し、その隨伴現象 Epiphänomen にすぎないとするものである。多くの人々が唯物論と考へるのはこれである。

三、ダイダンは、精神現象が物質現象から獨立した別個の存在であるかどうかといふ哲學的問題に入ることは避け、ただ科學的硏究の方法論上の要請として、精神現象はどこまでも物質現象と並行すると考へておくのが便利だとするものである。これはある種の生理的心理學者によつて抱懷される立場であるが、嚴密な意味では唯物論とは云ひ難いであらう。

マルクスの唯物論について。

なほ現在最も重要な意味を有つてゐるのはマルクスの唯物論、卽ち dialektischer Materialismus 〈辯證法的唯物論〉である。マルクスはもとヘーゲルから出て、それを逆轉したものである。ヘーゲルは、「理性的なものは現實的であり、現實的なものは理性的である」“Was Vernünftig ist, das ist wirklich; und was wirklich ist, das vernünftig ”と説いた。卽ち思惟卽存在 Denken≡Sein なのである。しかしもし思惟と存在とが完全に同じものであるならば、それをそのまま裏返しにして、存在卽思惟 Sein≡Denken と云つてもよいであらう。これがマルクスの立場である。もう少し云つておけば、ヘーゲルの死後、ヘーゲル學派は右派と左派に分れた。フォイエルバッハはそのヘーゲル左派に屬するのであるが、彼はヘーゲルが理性と呼んだものの位置に人間を置き、しかも人間の本質を感性的人間として捉へたから、段々唯物論的になつた。ヘーゲルの理性の眞相はフォイエルバッハによれば、實は感性的人間にあり、感性的人間の眞相は物質にある。ヘーゲルでは理性が本體で、自然はその他在 Anders-sein である、ところがフォイエルバッハはそれを逆に考へた。そしてマルクスはそのやうなフォイエルバッハの影響を受けると共に、經濟學の硏究を通じて、辯證法的唯物論をたてたのである。社會も歷史も、物質の辯證法的運動によるとしたのである。

批評。

一、形而上學的唯物論について。それについては色々な點から批評を加へ得ると思ふ。形而上學的唯物論は、存在するものはすべて空間の中に存在するといふ考を論據とするものである。しかしまづ空間とは何であるか。かりにカントの立場に立てば、空間は直觀形式であり、アプリオリなものであり、たとへ空間の中にあるものは物質的であるとしても、空間そのものは物質的であるとは云へない。特にアインスタインの相對性理論の如きものから云へば、空間と時間は互に結びついてをり、時間から分離した空間といふ獨立した存在は考へられない。從つてすべて存在するものは空間に於て存在するとし、そこから簡單に唯物論を引き出すことは許されない。更に、次の點も問題であらう。空間にものが存在するといふことを認めるのは精神作用である。我がものの存在を認めるのである。してみれば我自體 Ich-selbst の存在の方が、單なるものの存在より一層根源的ではないか。要するに我々は、單なる空間的存在といふことよりも更に深くなつて行くことができるのである。

二、人間學的唯物論について。物心並行論は確かに否定し得ない事實である。しかし精神現象と物體現象との並行を辿り得るのは低次の精神現象例へば感覺といふ如きものについてであり、高次の精神現象については疑問であらう。もしコンディヤックの説く如き感覺主義 sensationalisme が眞理であるならば、すべての精神現象には物體現象が伴ふといふことができるであらう。しかし感覺的經驗 Sinneserfahrung は決して精神現象のすべてではないのである。説くに物質現象は Und-Verbindung であり、 a+b=a+b であらうが、精神現象はヴントの云ふ如く創造的綜合 schöpferische Synthese であり a+b=a+b+α であるところに特長がある。物質現象では部分が集つて全體ができると云へようが、精神現象ではまづ全體が現はれて部分がそれに續くのである。私の感覺といふ如きものでさへ、私の人格 personality と結びついてゐる。意識の統一 Unit of consciousness といふことは精神現象の本質に屬してをり、それは單なる物質現象の統一とは意味が違つてゐるのである。更にまた、唯物論者は精神は物質なくしてはあり得ないが、物質は精神なくしてもあり得る、だから物質が精神の本だといふが、しかしはたして精神なき物質があるといふ如きことはいかにして知り得るか。これも問題であらう。

三、宇宙論的唯物論について。論者は、宇宙はもと單に物質的であり、その宇宙發展のある段階で生命 Leben が現はれ、更にその生命がある程度にまで發展した上で意識が生じた、このやうに意識は結局物質から生じたのだから物質が意識よりも根源的であるといふ。しかし物質がまづ現はれたのだからと云つて、直ちに物質の中に精神的なものが潛在的に含まれてゐなかつたとは云へないであらう。むしろ世界の根柢には潛在的に精神的なものがあり、それが物質の發現を可能ならしめたのかも知れない。少くともそれは、人間の本質が幼兒の最初から明瞭には現はれないといふ如きものであらう。とにかくこの議論は潛在といふことを忘れた議論なのである。時間上後に現はれるものが却つて本質的なものであるとも云へるのである。

四、機械的唯物論について。これはエネルギー恆存律を論據とする唯物論である。しかしエネルギー恆存律は物理學上の假説にすぎない。もと物理學は何らかの前提の上に立つ特殊科學であり、物理學的認識は必らずしも根源的なものではなく、むしろ二次的なものである。しかもしれにも拘はらず、かかる物理學上の一つの法則を根拠として、全存在の本質は物質であると斷ずるのは僭越であらう。これは自然科學的認識の限界を無視したところの議論といふべきである。

第二節 唯心論

唯物論と全く反對の立場のものが唯心論 Spiritualismus である。唯心論とは、すべての現象の根柢をなす眞實在は spiritual 〈精神的〉なものであると考へるものである。我々が實在と考へてゐるものを性質的に區別すれば、その最も著しく異るものは、精神と物體であらう。そのいづれを根本と見做すかといふことで唯物論と唯心論とが分れるのである。

唯心論の眞の源泉をなすものはプラトンである。プラトンは普通に觀念論 Idealismus であると云はれる。しかし Idealismus といふ言葉は二樣に用ひられる。卽ち認識論上からは、我々は眞實在を知ることはできない、我々が知つてゐるのは觀念 idea にすぎない、眞實在は我々の認識とは別の領域にある、とするのがイデヤリスムスである。次に形而上學からは、 Idealismus とは Spiritualismus の意味である。つまりイデヤリスムスは、所謂觀念論と唯心論の二重の意味を有つてゐる。ところがプラトンは、眞實在はイデヤであり、イデヤは叡智的なものであり、永遠にして不變な存在であるとするのであるから、認識論上からは觀念論ではなく、むしろ眞實在が知られるとする實在論 REalismus であり、形而上學からは Spiritualismus である。プラトンは唯心論の源であると云つてよい。

唯心論はその論據によつて區別すれば、次の三つになる。

一、第一は物心の並行論に基づいてたてられた唯心論である。精神現象と物體現象とは並行するといふことは論理的に證明されることではなくして、我々に直接な經驗的事實である。先にある種の唯物論は物心並行論に基づいてたてられたものであることを話しておいたが、その同じ物心並行といふ事實に基いて、今度は逆に唯心論が主張されるのである。

唯心論者はかう主張する。我々が直接に經驗するものは精神現象である、精神現象は直接的、内面的、本質的のものであり、それに比すれば物體現象は間接的、外面的二次的のものである、と。この考は我々が自分自身を反省してみれば確かに適切なところがある。我々は他人については一應、まづ外面からその人を知るといふべきであらう。ところが我々は自分自身を直接に内面的に知つてゐるのである。外からしては單なる物體と考へられるものも、内からしては精神である。精神が物體の本質である。從つてこのやうな我々自身の直接の體驗から出發し、それから類推して動物から植物、更に無生物へと推し擴げて行けば、宇宙の萬物はすべて生命を有ち、精神を有つたものであるといふ歸結に到着するであらう。物心並行論はこのやうにして一種の唯心論になるのである。

これに類する考は古代人にも認められる。古代人がすべてを生きたものと考へ、すべてを擬人的に考へ、自然物を禮拜し、それに一種の spiritual power が宿つてゐるやうに考へるアニミズム Animism はそれである。近代でその最もよい代表者はフェヒネル Theodor Fechner 1801 - 1887 である。彼はもと物理學を硏究し、實驗を重んじ、後には今日の實驗的心理學や美學の實驗的硏究の基礎を置いた人である。しかしまた一方詩人的な豐かな Phantasie を有ち、四十位の時から哲學に入つた。彼はその時の體驗を Tagesansicht gegenüber Nachtansicht の中に次のやうに書いてゐる。ある日曜日のこと彼はライプチッヒのローゼンタールといふ公園でベンチに腰をかけ、考に耽つてゐた。遠くから日曜日の音樂が聞えてくる。その頃彼は目を惡くして物理學の硏究はできなかつたのであるが、まはりには蝶が飛び、綠の司馬孚が見える。その時、彼はかう思つた。物理學の立場からすればすべてはアトムの運動であり、畢竟、光も色も音も、アトムの運動にすぎない。本當の意味では、光も色も音もない。物理學の世界は云はば夜の光景 Nachtansicht である。しかし光も色も音もある直接の世界が世界の眞の姿ではないか。云はば晝の光景 Tagesansicht が世界の眞の姿ではないか、と。これが彼が「夜の光景に對する晝の光景」と呼ぶものであるが、彼はかうした直觀に基づき、 Nanna といふ書物では、植物も魂を有つたものであると云ひ、 Zend-Avensta では宇宙にも魂があるとした。つまり彼は人間のみならず、動物、植物、地球、太陽系、否、宇宙も魂を有つたものであるとした。生きものであるとした。尤も宇宙の中にあるものは、人間にせよ何にせよ、皆他に依據して存在するものであるが、宇宙そのものはしからず、宇宙そのものは自存的な存在であり、宇宙の魂が卽ち神の心であり、萬物はそれを teilhaben 〈分有〉して生きてゐるのである。卽ち彼は汎神論的唯心論 pantheistischer Spiritualismus を説いたのである。またそこから彼は死後の生活をも認めた。母の胎中にある胎兒に目や耳が生ずる。それは母の胎中にある限り無駄なものであるが、誕生してから大事な役に立つ。同樣に現世に生きてゐる人間が直接には役に立たない色々のことを考へる。しかしそれは死後、もつと高い魂の生活をする時に、なくてはならない役を演ずるのである。現在一見無駄と思はれる思想を人間が有つといふことは、實は魂の高次の生活を準備するものであり、またそれを保證するものである。このやうなことを彼は Das Büchlein vom Leben nach dem Tode 〈「死後の生活」〉の中に書いてゐる。要するに彼は精神的生活が根源的、本質的な生活であり、物質的生活は低度の生活であるとしたのである。物理學者が世界を見る見方は、實在の一方面を見てゐるにすぎないといふのである。

二、第二は、本體とか實體とか、要するに Substanz といふ槪念から論理的に考へを進めて行つて唯心論に到達したものである。プラトンのイデヤも感性的なものではなく、叡智的なものであり、從つて精神的なものであると云つてよいが、やはり論理的に考へられたものである。しかしアリストテレースではそれが一層明瞭になつてゐる。アリストテレースは、實體とは主語となつて述語とならぬものと規定したが、主語となつて述語とならぬものとは逆に、自己自ら自己を述語的に限定するものであり、自己自らに於て自己の存在を保つもの、卽ち自主的、獨立的、個性的なものであり、要するに精神的なものであらう。

近世哲學に於てはライプニッツのモナドロヂィがこのやうな考への適例である。デカルトは、實體とはそれ自身に於てあり、それ自身によつて理解されるものと定義した。ところが、それ自身に於てあり、それ自身によつて理解されるものとは、不可分割的な單一のものでなければならない。もし實體が可分割的なものであるとすれば、かかる實體はそのやうに分割された要素 element から組みたてられたものであり、それらの要素に基づき、それに於てあり、それによつて理解されるものとなり、實體の定義に矛盾するからである。從つて實體は不可分割的なものと考へられなければならない。しかるに物質は延長を有し、一定の空間に場を占める。ところが空間は可分割的であるから、その限り物質も可分割的であらう。してみれば物質は可分割的であり、實體の定義に合はない。從つて眞に實體と呼び得るものは、物質的ではなくして精神的なものでなければならない。事實我々の精神は不可分割的な全體であり、意識の統一 unity of consciousness は精神現象の本質である。半分の心といふ如きものを考へることはできない。ライプニッツはこのやうにして、實體の槪念を推し進めることによつて、實體とは精神的なものであるとしたのである。それがライプニッツのモナド Monad である。尤もモナドにも種々なる段階がある。植物は云はば眠つてゐるモナドであり、人間の魂は目覺めたモナドである。そして神は最も明瞭なモナドであり、最高のモナド、モナドのモナドである。ライプニッツのものとしては、 Discourse on Metaphysics, Correspondence with arnauld, Monadology 等を讀まねばならない。

更に近代ではロッチェの形而上學は、根本の考へ方ではライプニッツと極めて類似したものである。ロッチェはかう考へた。大體、ものが在るといふのはものが働くといふことである。ところが働くものがある以上、働かれるものがなければならず、 active なものに對しては passive なものがなければならない。しかし働かれるものは同時に働き返すものでなければならないから、働くといふことは結局 Wechselwirkung 〈相互作用〉といふことになる。してみれば眞に實體と云へるものは、このやうな相互作用の全體であり、相互作用の根柢をなしてそれを支へてゐるものである。實體とは相互作用の根柢として、働きつつしかも自己同一を保つもの、變じて變じないものであらう。ではこのやうな性質を具へたものが具體的にあるかと云へば、それは我々の精神であらう。我々の精神は時々刻々に變じつつ、自我としての同一を保つものなのである。ロッチェのスピリチュアリズムも、實體の槪念を論理的に追及して行つて得られたものと云つてよい。ロッチェの書物としては大きな Metaphysik の外に、小さな Grundzüge der Metaphysik といふのがある。

三、第三は認識論上の觀念論を基礎として立てられた唯心論である。尤もそれにも二つの種類がある。

その一つは心理學的なアイディアリズムを基礎とするもので、カントはそれを獨斷的觀念論 dogmatischer Idealismus と呼んでゐる。バークリの觀念論がそれである。バークリはかう考へた。我々は自己の意識以外のものを知ることはできない。我々が知り得るのは、自己の意識現象だけである。所謂外界の實在なるものは、實は我々の意識に於て constant relation を有ち、從つて客觀性を有つてゐるやうに思はれる意識現象の謂にすぎない。それ故、我々の意識から獨立した所謂外界なるものはない。眞の實在は我々の意識現象あるのみである、と。バークリはロックの經驗論から出發してこのやうな唯心論に到達したのであるが、彼は存在するとは知覺されてあること esse = percipi だとするのである。

他の一つは、カントの認識批判に由來するものである。カントは形而上學を否定したが、それが一點して新しい形而上學を呼び起した。カントは、我々の認識は、認識主觀が自らの先驗的形式により所與の感覺的雜多を統一することから生ずるとした。しかしカントの認識論は、感覺的雜多はどこから與へられるか、認識の内容はどこから現はれるか、といふ點に問題を含んでゐた。カントはそれを物自體 Ding an sich が主觀を觸發することによつて與へられると考へたのであらうが、それはカントの批判主義の精神と矛盾する。では認識の内容はどこから與へられるか。それは物自體からではないとすれば、主觀が、卽ち自我が、自己自らの中から内容を create するのでなければならない。そのやうに考へたのがフィヒテである。フィヒテはカントの立場から出たのであるが、カントのやうに自我を單に形式的な認識主觀とは考へなかつた。フィヒテは自我とは無限な活動 Tätigkeit であり、無限な進行 Vorgang であるとした。自我とは自己が自己自身に働くものであり、そこから無限の内容が現はれるのである。それは自我が自我を反省するといふ反省作用を考へてみても明かであらう。我考ふといふことが知られるのは、それを更に我が考へてゐるからであり、そのことが我に知られるのは更にそのことを我が考へてゐるからであり、かくて無限に到るからである。それがフィヒテの事行 Tathandlung と呼ぶものである。しかも自我が自我として自覺されるのは、自我が自我 Ich に對して自我のうちに非我 Nicht-Ich を反對定立することによつてであり、非我も自我によつて自我の中に立てられるのだから、フィヒテにとつてはすべての内容は自我が産出したものになる。世界は自我の發現である。このやうにカントの形式的な先驗的自我はフィヒテによつて自ら内容を産出する形而上學的な自我となり、ヘーゲルにまで到るドイツ觀念論の體系が現はれてくるのである。

フィヒテは自我の無限な活動を自我が自我を反省するといふ自覺から考へてゐるのであるが、この無限の考へは現在の數學者の無限の考へとも一致する。デデキントやカントールに依れば、無限とは部分と全體とが等價 equivalent である如きもの one to one correspondence 〈一對一對應〉をなすものと考へた。例へば
1 2 3 4 …… ∞
11 12 13 14 …… ∞
について、後者は前者卽ち自然數の全系列の一部であるが、それらはどこまでも一對一對應をなす點からすれば互に相等しい。このやうに全體と部分とが等しいもの、云はば全體が部分のうちに自分を映して行くもの、卽ち自覺的體系が無限なのである。フィヒテの自我には、このやうな趣がある。

なほ唯心論は更に異つた立場から區別することができる。もと我々の精神とはどのやうなものであるか。普通に精神の作用は智情意の三つに分けられ、そのうちどれを本質的と考へるかによつて精神といふものの性格が異つて考へられるであらう。丁度そのやうに智情意のどれを精神の本質と考へるかに應じて、唯心論にも三種が區別される。卽ち智識を主とするものが主智主義 Intellektualismus 意志を主とするものが主意主義 Voluntarismus なほその外に感情を主とするものもあり得る譯である。

古來の多くの唯心論は主智主義である。これに對し、主意主義はむしろ近世に多い。尤も中世にあつてもドンス・スコトスは主意主義であつた。彼は、我々が知るといふことは知らんと欲する意志 will to know に依る、意志は智識よりも根本的であるとした。近世哲學で主意主義の代表的なものはショーペンハウエルである。カントに依れば我々の認識は認識主觀の先驗的形式によつて構成されるものであり、現象界には妥當するが、眞實在である物自體は我々の認識の及び得ないものとされた。これに對しショーペンハウエルは、物自體は認識によつて對象的には把握されないが、我々の意志によつて直接に觸れられる、物自體は生きんとする盲目な意志 blinder Wille zum Leben であり、意志が宇宙の根柢であるとした。意志が認識以前の實在の眞相である。

感情をもつて主とする唯心論は、歷史上にはその適切な例はないが、ハルトマンの考はややこれに近いものである。ハルトマンはヘーゲルとショーペンハウエルを折衷し、眞實在は das Unbewusste 〈無意識者〉であり、知識と意志の兩面を有つとした。ハルトマンの云ふ無意識とはむしろ感情に近いものである。具體的には彼はそれを動物の本能の如きものに比した。確かに動物の本能は合目的に作用するが、それを意識してのものではない。むしろ感情的にそれを感じてゐるだけである。

批評。

一、フィヒネルの考には直接經驗の立場に通ずる面もあり、空想的であるとして一槪に棄て去らるべきではない。しかしそれを物心並行論から導き出された唯心論とすれば單に類推によつて議論を進めるものであり、何としても論據は薄弱である。

二、次にライプニッツやロッチェの如く實體といふ槪念を論理的に發展させて唯心論をたてる仕方は極めて論理的であり、現在餘多くの人の省みないところであるが、その根柢に於て極めて深い意味が存すると思ふ。特にアリストテレースの實體の考は餘程大事なものであり、現在改めて考へられる必要がありはしないか。

三、バークリの唯心論は心理學的な考を哲學に適用したものである。しかし心理學的な事實から直ちに哲學的な結論を引き出さうとするのは誤である。却つて逆に深い心理學的考察は哲學的基礎を要求するのではないのか。またバークリの考ではいかにして多くの個人が共通の一つの客觀的世界を知り得るかは説明に困難であらう。バークリは神を持ち出してそれを説明しようとする。卽ち我々が客觀的世界と考へるものは神の觀念内容であり、たとへ我々がそれを考へてゐない時にも神の觀念内容として存續してゐるからそこに客觀的世界が認められるといふのであるが、それは獨斷的な説明にすぎない。もしまたそのやうな獨斷論を避けようとすれば、外界も他人の存在も自己の觀念内容にすぎないといふ獨我論 Solipsismus に陷るの外はないであらう。しかしそれに對しフィヒテの自我の考には十分生かさるべきものが殘されてゐる。

要するに唯心論としては、ライプニッツやロッチェのやうに論理的に進む道と、フィヒテのやうにカントの認識批判を推し進め、その意味で批判的に進む道とが大事であり、その二つの道が一致するところに眞の唯心論がたてられるのであらう。私も唯心論には同感する點が多い。しかしそれと共に唯心論にも缺點があることを認めるものである。唯心論は物的世界 Dingwelt に對しては極めて批判的であり、物的世界の獨自の存在を否定する。しかし唯心論はもつと自分自身に對して批判的であり、唯物論を否定する同じ論法を自己自身に對しても向けるべきではないか。唯心論が物 Ding を否定するのは、物は直接に與へられるのではなく、超越的 transzendent だからだといふのであらう。しかし物が超越的だといふなら自我 Ich も超越的であり、物が否定されるのと同じ理由で自我も否定さるべきであらう。超越的な物 Ding だけを否定し、超越的な自我 Ich を殘すのは不徹底である。兩者を共に否定し、もつと直接な疑ふべからざる純粹經驗の如き立場に歸ることが一應必要であらう。唯心論は唯物論よりも純粹經驗の立場に近いのであるが、自我を超越的な實體の如くに考へるならば、やはり獨斷的たるを免れない。しかし更に深く考へれば、物とか心とかいふ以上に、そもそも存在とは何であるかが尋ねらるべきであらう。その點、アリストテレースの形而上學の意味が改めて問はるべきであると思ふ。

第三節 モニスムス

モニスムス Monismus は言葉の意味からすれば一元論であるが、 Singuralismus とは別に考へることにする。デカルトは精神と物體を二つの二次的實體と考へ、兩者の根柢に一次的實體としての神を置いた。精神は單に思惟 congitatio するだけであり、物體は單に延長 extensio するだけである。ここからそのどちらを眞の實體と考へるかで、唯心論と唯物論の對立が現はれてくる。しかし眞の實體は精神と物體の奧にある神であるから、この點を徹底して考へて行けば、眞の實體たる神は單に精神でもなく、單に物體でもなく、精神と物體は唯一實體の二つの現はれ方といふことにならう。これがスピノーザの立場であるが、スピノーザは唯物論でも唯心論でもない。このやうに存在をその性質 Qualität の上からみて、精神的、物體的な對立以上のものと考へるのがモニスムスである。

しかし眞實在を statisch 〈靜的〉なものと見るか、 dynamisch 〈動的〉なものと見るかで、モニスムスも二つに大別される。前者は statischer Monismus であり、後者は dynamischer Monismus である。

靜的モニスムスも、どのやうな論據でたてられるかといふ論據の相違で、更に三つに區別される。

イ、一つは心理學的立場からしてのものである。卽ち心理學上の經驗的事實に基づいてたてられたモニスムスである。哲學體系としてその實例はないが、心身並行論を認める心理學者の中に、時としてそのやうな考が窺はれる。つまり、精神現象と物體現象とは同じ一つの現象の兩面であるとするのである。ヘッフディング Harald Höffding 1843 - 1931 やエッビングハウス Hermann Ebbinghaus 1850 - 1908 の考はそれに類する。それは結局スピノーザの考に近よつて行く。しかしそれは哲學體系としてではなく、心理學への序説のやうな形で述べられてゐるだけである。

ロ、次は形而上學的立場からしてのものである。近世哲學ではスピノーザの形而上學がそれである。上述したやうに彼はもとデカルトから出發した。デカルトは「哲學原理」 Principia philosophiae に於て、實體を定義して次のやうに云つてゐる。「實體とは、それが存在するために他の何ものをも必要とすることなくして存在する如きものを意味する、」と。しかも彼は一次的實體としての神の外に、二つの二次的實體たる精神と物體とを認めてゐる。しかし二次的實體とは神に依存する實體であるから、嚴密には上の實體の定義に矛盾し、實體としては否定さるべきであらう。二次的實體とは形容矛盾である。その上デカルトの立場では精神と物體との關係は説明がつかない。そこでスピノーザはこれらの問題を打開するために、實體とは自己因 causa sui たる神のみであるとし、思惟と延長とはその二つの屬性にすぎないとした。屬性とは神卽自然たる唯一實體が自らを表現する二つの仕方であり、或は實體が我々に知られる時に、その本質に屬すると考へられるものなのである。それをどう解するかには問題があるが、そのいづれに解するにせよ、思惟と延長は屬性 Attribut であつて實體 Substanz ではなく、從つてまた實體は思惟と延長以上のものである。スピノーザは實體を唯一にして無限のものと考へた。もし二つの實體があるとするなら、その兩者を關係づける唯一の實體が眞の實體の筈だからである。なほ彼は無限なるものに二種を區別した。詳しく云へば彼は存在に三つの段階を考へたのであり、それは
 1 in suo genere finita
 2 in suo genere infinita
 3 absolute infinita
の三つである。最初の「その種に於て有限」なものとは種々なる個物、次の「その種に於て無限」なるものとは無限な空間の如きもの、そして第三の「絶對に無限」なるものが卽ち唯一實體たる神である。第一は有限樣態、第二は無限樣態、第三が實體であり、眞に無限なるものは「その種に於て無限」なる樣態ではなく、「絶對に無限」なる實體のみである。樣態 modi とは實體の modification 卽ち實體の樣々の個別的な現象であり、それは思惟と延長の兩面をもつて現象するから、思惟と延長は一つのものの兩面としてどこまでも並行するとされたのである。「觀念の順序及び結合は物の順序及び結合と同一である。」“Ordo et connexio idearum idem est ac ordo et connectio rerum.”しかし有限樣態である我々は、唯一無限の實體たる神に歸することによつて始めて淨福に達するであらう。これが人生の究極である。スピノーザの「エチカ」 Ethica はかかることを幾何學的方法によつて證明しようとしたものである。

ハ、第三は認識論的立場からのものであり、シェリングの哲學がそれである。シェリングもカントの批判哲學の地盤の上に發展してきたものであると云つてよい。カントは我々の認識は純粹統覺の統一に基づいて成立すると考へた。カントの純粹統覺は單に形式的であり、自ら内容を生産するものではなかつたが、 Spontaneität 〈自發性〉の能力であり、無限の純粹活動と解せられる面がある。そこからフィヒテは reines Ich 〈純粹自我〉を無限に内容を生産する創造的活動と考へ、非我も自我によつて自我の内に定立されたものであり、すべてのものは自我の現はれであると考へた。シェリングの哲學はこのやうなフィヒテの考から出てきたものなのである。フィヒテは自然は自我の所産であり、自我の現はれである。つまりフィヒテに於ても、自然の本質は自我なのである。しかしもしさうならば逆に、自然が自己の本質を實現すればそれが自我である、自我は自然の現はれであるとも云つてよいであらう。かくてここからシェリングは、自然は有形な精神であり、 Natur = der sichtbare Geist 自我は無形な自然である、 Ich = die unsichtbare Natur とした。云はば云ひてでは自我は自然より大きく、――Natur<Ich――自然を自己のうちに包むものであるが、シェリングでは自我と自然とは同じ本質のものであり、結局同じ一つのもの――Natur=Ich――とされた。卽ち眞實在、或は絶對者は Subjekt = Objekt, Ideal = Real なものなのである。それがシェリングのいふ同一 Identität であり、彼の哲學が同一哲學 Identitätsphilosophie と呼ばれる所以である。シェリングはかかる主觀・客觀の同一としての眞實在は知的直觀によつて達せられるとした。主觀と客觀の合一した狀態が知的直觀なのだから、それによつて眞實在としての Identität に達せられるのは當然であらう。彼が既に「先驗的觀念論の體系」 System des transzendentalen Idealismus に於て、藝術が Organ der Philosophie 〈哲學の機關〉であるとし、藝術的直觀を重んじたのも、藝術作品は自然として現はれてゐる精神であり、從つてそこに主觀・客觀の合一が見られるのだから、それも當然であらう。ところがシェリングの所謂 Identität は主觀と客觀、精神と自然の無差別的同一であり、且つ永遠不變のものであるが、そこからいかにして精神と自然が分化し、變化の世界が現はれるのであるか。シェリングはそれを、丁度電磁氣の現象に陰陽の兩極が見られるやうに、無差別的同一者がどちらかの極に傾くことによつて現はれると考へたのである。シェリングはカント、フィヒテから出たのであるが、ベーメやスピノーザの思想に近より、神祕主義的である。とにかく彼は絶對者を永遠不變の無差別的同一と考へ、 statischer Monismus である。

附。 Bewusstseinsmonismus

なほバークリは esse = percipi だと云つたが、この考を更に徹底すれば、 Bewusstseinsmonismus 〈意識一元論〉ともいふべきものになる。けだしバークリのやうに考へれば、物が存在してゐるとは知覺されてゐることであり、從つて逆に物の存在が否定されれば、同時に知覺も否定され、我の存在も否定されるであらう。してみれば眞に存在してゐるのは主・客兩面をもつた直接の意識狀態、云はば純粹經驗に近いものであらう。マッハの Analyse der Empfindungen やアベナリウスの考へはそれである。

批評。靜的モニスムスは、眞實在は唯一にして、永遠不變のものと考へる。それは眞實在として一應論理の當然といふべきであらう。しかし、いかにして一にして不變のものから多にして變化するものがでてくるか。そこに問題がある。

スピノーザは唯一にして無限な實體のみならず、思惟と延長といふその二つの屬性も永遠であると考へた。ではそこからいかにして變化する種々相、卽ち樣態 Modi が生ずるか。スピノーザはそれを丁度三角形の本質から三角形の諸性質が必然的に現はれてくる如きものと考へた。しかしそれは論理的展開であつて、時間的發展ではない。論理的推論に於て前提から歸結が生ずる如きものである。スピノーザには時間はないといつてよい。時間の變化とか、時間の前後とかいふものは、眞實には存在しないので、我々の認識が不完全であり、十全でない結果である。つまりすべての變化する樣態は、我々の迷といふことになる。では我々の迷はどこから來るか。それが實體に基づくとするのは、實體の本性と矛盾することにならう。

またシェリングについて云へば、彼の同一 Identität は ideal と real の合致したものである。それがいかにして精神或は自然の一方に傾くか。その説明はシェリングの立場では困難であらう。ヘーゲルがシェリングを批評して、シェリングでは絶對から相對が出ること、あたかもピストルから彈丸が出る如く突發的であるといふのはその通りである。またシェリングではいかにして Identität 〈同一〉を認識し得るか。それは藝術的直觀に依るとするのは、哲學として論理的に十分基礎づけられた説明とは云へない。

要するに、眞實在は靜にして動、動にして靜なるものであるから、それを一方的に靜的モニスムスとして考へれば、靜の面は理解できるが動の面が無視され、その説明に困難を生ずるのである。

二、動的モニスムス

モニスムスとは總じて眞實在をば精神と物質の奧にあるもの、從つて逆に精神と物質とはかかる眞實在の兩面或はその現はれであると考へるものである。ところが靜的モニスムスはかかる唯一實在を永遠不變なものと考へたのであるが、それに反してかかる唯一實在を無限に發展する動的なものと考へることもできる。それが動的モニスムスである。動的モニスムスもそれが立てられる論據の如何によつて三種に區別される。大體哲學に於て重要なのは單なる結論ではなくして、どのやうな論據により、どのやうな論理の筋道によつてその結論が得られてゐるかといふことである。結論のみで哲學の學説としての價値を論ずるのは、淺薄だと云はれねばならない。それはとにかく、動的モニスムスとは實在の原理を動的と考へるものの謂である。

イ、經驗的事實に基くもの。經驗的事實に基いて dynamical monism を説くものであり、卽ち科學 science に基いて世界を發展的と見る考へである。このやうな考へは十九世紀に到つて始めて現はれた。大體、十八世紀の科學はニュートン物理學が基礎となり、すべての現象を普遍的な法則によつて説明しようとしたものである。しかしかかる考へ方では特殊的なものはすべて一般的なものに還元され、すべては同じ要素 element の反復といふことになる。これでは歷史は説明されない。物質は歷史を有たず、物理學には歷史はない。ところが十九世紀に到つて生物學が發達してきた。そしてその基礎を置いたのがダーウィンの進化論である。無論ダーウィン以前にも進化論的な考へ方がなかつたのではない。しかしそれをダーウィンが始めて綿密に學問的に論證したのであるまた十九世紀に於ては歷史學も著るしく發達した。それにはヘーゲルの影響もあつたであらうが、とにかく十九世紀には物を發展的、歷史的に見る傾向が強い。そこからして、このやうな考へ方を宇宙の全體に及ぼし、宇宙進化論が説かれるに到つた。かかる考へ方は生物學者、科學者等に多いが、スペンサーの哲學はダーウィンの進化論を宇宙の全體に及ぼした代表的なものであり、ダイナミカル・モニズムだと云つてよい。

ロ、形而上學的論據に基づくもの。實體 Substanz の槪念に基づいて、實在は動的なものでなければならないと考へるものである。ヘーゲル哲學はある意味ではこれに屬するのであるが、カントの認識批判を經てゐるものであるから後に話すことにする。ところがカント以前には比較的このやうな考へ方は少く、却つてギリシャ哲學に實例が見られる。例へばヘラクレイトスはそれで、彼はすべてのものは反對のものから生ずるとか、爭は萬物の父であるとか云つた。晝は夜から生じ、また夜になる。すべては流轉し、一瞬も止まらない。所謂萬物流轉 πάντα ῥεῖ である。世界は川の流れの如きものであり、同じ川を二度渡ることはできない。かかるものが實在の眞相だといふのである。ヘラクレイトスの斷片は Nestle の Vorsokratiker や Dierls の Fragmente のうちに集められてゐる。このやうな動的モニズムはアリストテレースにも認めることができるであらう。アリストテレースは、すべてのものは潛勢から現勢に變じつつあると考へたのである。アリストテレースは彼の形而上學第十二卷に於て神を説き、神は pure actuality であり、 a living being, eternal であり、そして神の思惟は a thinking on thinking であると云つてゐるが、プロチーヌスはこの考を徹底し、萬物の根柢に一者を考へた。プロチーヌスの一者はそれ自身としては永遠不變のものであり、從つて靜的モニズムと云ふべきであるが、彼の一者はそれを我々の現象界の側からみるならば、無限の活動だと云つてよい。ギリシャ哲學史家チェラーは、プロチーヌスの一者は動的なものだと解してゐる。この解釋はやや穩當を缺くが、さう解されてもよい點がある。近世ではライプニッツの哲學には、動的モニズムともいふべき趣が認められる。ライプニッツのモナドロヂィは唯心論で且つ多元論であるが、すべてのモナドは神の所産であるといふ方向からは動的モニズムの契機を含むのである。

ハ、認識論的論據に基づくもの。認識論の立場からして説かれたものであつて、心理主義的なものと、批判主義的なものとに分れる。

心理學的認識論にも色々あるが、ロックの認識論はその最も代表的なものの一つであらう。ロックは感覺を主としてそれからすべての精神現象を説いた。彼は反省 reflexion の面をも認めたのだが、感覺がやはり主とされた。このやうな立場からは動的モニズムは生じない。ところが前に話したやうに、ロックの立場はコンディヤックからメン・ド・ビランにまで發展することによつて、主意主義になり、 Voluntarism となり、精神現象を動的と考へるに到つた。しかしこの立場はそれを更に深く徹底させれば、我々の直接の經驗は無限に動的なものであるとする純粹經驗の立場に達するであらう。それがベルグソンの立場である。彼は我々の意識の直接の狀態は一瞬の過去にも歸らない純粹持續 durée pure である、それが眞に内容のある時間 la temps réal であると考へた。そこから彼はそれを更に擴げて宇宙の創造的進化 l'évolution créatrice を説いたのである。具體的な實在は動的である、靜的なもの、涸渴した物質界の如きは眞の實在ではないのである。同じ純粹經驗でも、マッハのやうに考へれば statical になるが、ベルグソンのやうに考へれば dynamical になる。ベルグソンの立場はダイナミカル・モニズムだと云つてよい。しかし純粹にダイナミカル・モニズムかと云へば、さうも云ひ切れないメンがある。ベルグソンは緊張の一面に弛緩を説いた。生命の無限の進行にはその進行を妨げるものが現はれてくる。生命は生命の進行を妨碍するもの、卽ち弛緩をば打ち破つて進んで行くところに存する。物質とは灼熱して流動する鐵の上に直ちに冷却して皮が生ずる如きものである。彼は生命にも種々なる方向と段階を考へた。鑛物や植物は、生命が弛緩して行つた方向である。このやうにベルグソンは緊張の反面に弛緩を説くのだから、その限り彼の考へには二元論的な面が伴つてゐるのである。

次にカントの認識論の發展と考へられる動的モニズムがある。ヘーゲル哲學がそれである。カントの意識一般は認識主觀に止まる。ところがフィヒテに到つて純粹自我は Tathandlung 〈事行〉となり、更にシェリングに到つて眞の實在は精神と自然の合一として同一者 Identität とされた。しかしシェリングの同一者は靜的であり、どうしてそこから動的なものが現はれるかは説明ができない。シェリングのいふ藝術的直觀によつてもその説明はできまい。既にフィヒテは自我と非我との關係を辯證法的に考へてゐるのであるが、ヘーゲルはすべての存在の根源を理性 Vernunft と考へ、すべてを理性の辯證法的な發展として論理的に説明しようとしたのである。ヘーゲルが彼の「法哲學」 Philosophie des Rechts の緖論に於て、「理性的なものは現實的、現實的なものは理性的」と云つてゐるのは、彼がすべての理性の辯證法的發展と解しようとしたことを語るものである。ではヘーゲルの理性の辨證法とはどのやうなものであるか。

もとカントは、我々の經驗は Kategorien 〈範疇〉によつて構成されたものであり、範疇は純粹自我に備つてゐるとした。しかしカントでは純粹自我と範疇の關係は殆んど説かれてをらじ、いかにして純粹自我から範疇が出るかは明瞭ではない。フィヒテはそれを事行によつて説明しようとした。事行の根本的ないくつかの形が範疇成立の根源とされたのである。しかしヘーゲルはそれを更に深く考へた。ヘーゲルはかう考へた。自我といふ如きものは既に複雜な構造をもつたものであり、單純なものではない。自我はもつと根源的なものから演繹されなければならない。それがヘーゲルのいふロゴスであり、純粹なロゴス――卽ちヘーゲルのいふ槪念 Begriff ――の辯證法的展開を跡づけたものが、ヘーゲルの論理學である。そしてこのやうなロゴスが自己疎外して Anders-Sein 〈他在〉の形をとつたのが自然 Natur であり、それが再び自己に歸り、自覺したのが精神 Geist である。ヘーゲルのいふ理性 Vernunft 卽ちロゴスは、思惟する作用といふより、思惟そのものである。

ヘーゲルの辨證法は、その論理學の始めのところを見ても、大體は察せられる。ヘーゲルの論理は動的な論理であり、矛盾によつて動くものである。普通にものは矛盾すれば破滅すると考へられるのであるが、ヘーゲルは矛盾によつてものは發展すると考へる。彼の論理は純粹な有 Sein から出發する。有は最も單純なものであるからである。しかしヘーゲルのいふ有 Sein は物がある、性質があるといふ如き意味での有ではない。それでは物や性質の有であつて、有そのもの、純粹な有ではない。純粹な有は、單に有とほか云ひやうのないものである。しかしそこに矛盾が起る。けだし單に有とほか云ひやうのないものは全く無内容であつて具體的には何とも規定しやうがない。卽ちそれは無 Nichts と異らない。有卽無であり、 Reines Sein = Nichts である。ヘーゲルの論理はこのやうな矛盾から出發して展開されて行くのである。有は卽ち無であると云へば、一應有も無も共に否定されることにならう。しかしヘーゲルは單純にさうは考へない。彼は有と無は互に互を否定して却つて成 Werden に止揚されると考へる。有と無が矛盾することの Wahrheit 〈眞相〉は、成となつて現ずるのである。それは成 Werden といふことを考へてみれば分る。成とは夜が晝になるとか、小なるものが大なるものになるとか、要するにあるものが無いものになつたり、無いものがあるものになつたりすることである。成とは有にして無、無にして有であることの具體的な姿なのである。かくて有は無となり、更に成となつて、次々にと辯證法的に矛盾を通じて發展して行く。例へば今、成といふことを云つたが、成といふことを具體的に摑まへようとすれば、それは何かに成じ來つた存在、 geworrdenes Sein つまり何かあるもの Etwas として捉へるほかはあるまい。ところがあるもの Etwas は他のもの Anderes に對してのみ可能なのだから、そこにも辯證法的な矛盾が起つてくる。卽ち Etwas は Anderes に對し、 Anderes はそれを摑まへようとすればそれ自らが一つの Etwas となり、更に他の Anderes を呼び起し、かくて無限に動いて行くからである。

ここで無限といふことについて一寸注意をしておきたい。今、 Etwas → Anderes, Anderes = Etwas, Etwas → Anderes として無限の進行が起ると云つたが、このやうにどこまでも果しなく進むといふ意味の無限は無際限 Endlosigkeit といふだけで、ヘーゲルによれば眞の無限ではなく惡無限 schlechte Unendlichkeit である。それでは無限はどこまでも先に先にと推しやられて、有限のうちに無限は實現されない。有限と無限は對立する。これに對し眞の無限は、有限に對する無限ではなく、有限を含んでそのうちに實現される無限である。Etwas → Anderes と轉ずるだけのものではなく、自らの内に Etwas と Anderes の對立を含み、それを越えたものである。それが眞無限 wahrhafte Unendlichkeit である。我々の實踐生活と結びつけて考へれば、我々の欲望はヘーゲルの云ふ Etwas → Anderes の如く、一つの欲望を滿せば更に他の新しい欲望が起り、はてしがない。それは惡無限にすぎない。ではいかにしてそのやうな煩惱を脱することができるか。煩惱を脱する爲に隱遁し、山に入るのは、煩惱を恐れて逃げるだけである。これに反し、現世に於て活動しつつ、所謂「心の欲するところに從つて矩を踰えざる」の底が、眞無限であらう。

しかしそれはとにかくヘーゲルは、このやうな辯證法的論理に基づき、自然から更に精神の世界をも考へてゐる。畢竟ヘーゲルにとつては理性が絶對者であり、すべては理性の無限な辯證法的展開であり、すべてはどこまでも辯證法的な運動なのである。ヘーゲルの哲學は最も徹底したダイナミカル・モニズムだと云つてよい。

批評。では動的モニズムですべては説明し盡されるか。私は簡單にさうとは考へない。私は究極の實在は單に動的なものとも、單に靜的なものとも考へない。哲學の最後の立場は動的モニズムと靜的モニズムが結びつくところにあると考へる。眞の實在はどこまでも動的に發展すると共に、またどこまでも靜的に不變不動のものである。眞の生命は單にベルグソンの云ふ如く無限に流れるだけのものではなく、同時にあくまでも流れないものである。ヘーゲルは餘程さうした趣を示してゐるが、觀念的に終つてゐる。ではそれはどのやうに考へたらよいか。それは非常にむつかしいことであるが、私はアリストテレースの形而上學がよい手引になると考へる。アリストテレースは實體 Substanz を定義して、主語となつて述語とならぬものと定義した。アリストテレースは主語の側に超越することによつて實體に達しようとした。しかし判斷はすべて主語と述語からなり、 A is B. の形をとる。してみればアリストテレースのやうに主語の側卽ち個物の側を重んずるだけでなく、述語の側卽ち一般者の側も省みられなければならないであらう。アリストテレースの實體の定義に倣つてそのことを考へれば、「述語となつて主語とならぬもの」がある筈である。それは絶對に述語となつて主語とならぬものであるから、更にそれを他の述語で規定し得ないもの、卽ち絶對無であらう。私はこのやうにアリストテレースを逆にし、述語の側を超越することによつて同時に主語の側に超越することもでき、そこに眞實在に觸れ得ると思ふのである。