西田幾多郎著『哲学概論』 附録第二 純粋経験

純粋経験

第一章 純粋経験

実在論は、我々の主観的世界以外に我々の意識現象より独立せる客観的世界のあることを仮定して居る。観念論は意識以外の客観的世界を否定するが、精神現象の本体である soul 〈心〉の如きものを仮定して居る。哲学はできうるだけ批判的なる学問であつて、疑ふに疑ひ様のない直接の真理より出発せねばならぬのであるから、かかるドグマを許しておくことは不当である。たとへ之を許すにしても厳密なる批判的検討の後に於てせねばならぬ。カントの批判主義でも知識の内容は外界の Ding an sich 〈物自体〉より来るとし、物自体といふ如きものを許して居る。此点はカントの批判的精神とは相容れぬ様に思ふ。

次に合理論と経験論の議論についても、合理論の人は概念的知識を一種特別のものと考へて居る。併しこは果してさうであるかどうか。経験論の方でも同じく概念的知識は経験でないとして居る。

しかし哲学はできるだけ直接の知識から出発せねばならぬ。古来哲学者の中に真に直接な確実性から出発せうとした人は二人ある。一は中世に於けるアウグスチヌスであり、一は近世の始に於けるデカルトである。アウグスチヌスは我々の直接的真理としてI know. と I love. といふことをあげて居る。一は我々の真理の本となり、一は善の本となるのである。〔アウグスチヌス曰く。 Soliloquia II. 1.: Tu, qui vis te nosse, scis esse te? / Scio. / Unde scis? / Nescio / Simplicem te sentis au multiplicem? / Nescio. / Moveri te scis? / Nescio. / Cogitare tescis? / Scio. 〈独語録、二の一、汝知ることを求める者、汝が在ることを知るや?/我知る。/いかにしてそれを知るや?/我知らず。/汝は単純なるものなりや、複合せるものなりや?/我知らず。/汝は自ら動くことを知るや?/我知らず。/汝が考へることを知るや?/我知る。〕デカルトは例の有名なる Cogito, ergo sum. 〈我考ふ。故に我あり。〉から出立して居る。

併しデカルトでもアウグスチヌスでも、 cogito, ergo〈我考ふ、故に〉といつて law of causation〈因果の法則〉に由つて sum〈我在り〉を推論したものならば、真の直接の真理とはいはれぬ。真の直接経験の事実は、我がそれを知つてゐるといふのではない。我が知るといふのではなく、ただ知るといふことがあるだけである。否、知るといふことがあるのでもない。赤ならばただ赤といふだけである。これは赤いといふのも既に判断である。直接経験の事実ではない。直接経験の事実は、ただ、言語に云ひ現はすことのできない赤の経験のみである。赤の外に「知る」とか「意識」とかいふことは不要である。赤の赤たることが即ち意識である。意識といふものがあつて、それが赤となつたり緑となつたりするといふが、しかし直接経験にはさういふ抽象的な意識はない。意識といふものがあつて、之が赤から緑に変ずるのではない。赤が緑に変ずるのがそれよりも根本的である。

人はかういう考は Denken〈思惟〉を無視したものであるといふであらう。瞬間的直観としてはさうでもあらうが、思惟の要求としては意識とか我とかいふことを考へねばならぬといふ。併しその思惟といふものが先づ純粋経験の事実として我々に現はれて来るのである。ヂェイムズのいふ様に、思惟といふことも経験である。 to とか from とかいふのも皆経験である。思惟といつて一種特別の力があるのではない。それで若し思惟の要求が正しいものとしても、思惟が純粋経験の事実でありながら、それからいかにしてさういふ要求が出てくるかを考究せねばならぬ。思惟の必然性といふことも畢竟純粋経験の確実性の上に本づくのではなからうか。思惟は直接経験の screen〈幕〉の後に入り得る様に考へてゐる人もあるが、その実はこのスクリーンの後に入ることはできぬのである。〔面々神と相対する所ここにあり。〕

かく云へばカント学派の人々からは心理的と論理的とを混同せるものであるといふであらう。併し余が今ここにいふ直接経験といふものは、未だ心理的とか論理的とか区別のできない前のことである。かくの如きものが個人の psychical event〈心理的出来事〉であるかどうか、そは研究した後でなければ分らぬ。また個人的ともいふことのできないものである。個人的なと考へるのもこれで考へるのである。そは個人的とか超個人的とかいふ区別以前である。心理的と論理的との区別もこれで考へるのである。 ideal であつても、それが real となる時は、必らずこの形をとつて現はれるのである。


此の如き出立点の疑ふべからざることは誰も承認するであらうと思ふ。デカルトもいつた様に、疑ふといへば疑ひもこれによつて疑ふのである。唯すべての人の恐れるのは之より来る結論である。かくの如き出立点からして遂に Solipsismus〈独我論〉を脱することができないばかりでなく、厳密にいへば瞬間的感覚といふの外何事も云へない極端なる懐疑論に陥るの外ないのではあるまいか。併し独我論といふのは始から個人といふものを仮定して居るのである。これは元来身体といふ考に束縛せられて居るのではなからうか。意識が個人の外に出ることができぬといふなら、今日の意識と昨日の意識とどうして結びつくか。その仕方は全く同一である。単に feeling of personal identity〈人格的同一の感情〉によるのである。記憶によるのである。しかしかかる人格的同一の感情といふ如きものは、反省の由つて起り来る appendix〈附加物〉である。之に由つて意識が結合せられるのではない。意識と意識とは直接に融合するのであり、直接に結びつくのである。 feeling of resemblance〈類似の感情〉といふものも appendix である。(それでエッビングハウス Ebbinghaus は連続を聯想の本としたのである。)人格的同一の感情そのものも意識現象たる以上は、やはりかくして成立したものである。

他人の意識は直接に知ることができぬといふが、リップスのいふ様に、他人の意識を知るのは Analogie〈類推〉ではなく Einfühlung〈感情移入〉である。自己の客観化に由るのである。我々は反つて自己の表現を知らない。他人の意識と結合するときは尚表現の媒介を要すといふであらうが、自分の場合にてもかくの如きことがあるであらう。

自分の場合では one and the same psychose〈同じ一つの精神作用〉の結合であるが、他人の場合は two independent psychoses〈二つの独立した精神作用〉の acquaintance〈相識〉にすぎないといふでもあらう。併しいづれの場合に於ても、之を結合するものは二つ共に general idea〈一般概念〉である。他人の思想を理解し之を展開して行くも、自分の思想を展開して行くも同一である。


意識を個人にかぎり、それがため独我論に陥るなどいふのは、直接経験に由り内から見ずして、反省に由り外から見るによるのではあるまいか。内より見れば、唯その内容いかんによつて、――即ち qualitative〈質的〉に――連続的とも云へ、また非連続的とも云へる。(ルヌーヸエ Renouvier やヂェイムズなぞは経験を非連続であるといふ。)昨日の意識と今日の意識の連結を許すならば、之と同一の意義に於て自他の意識の連結も許さねばならぬと思ふ。

それで意識が内容的に結合せられれば、一の意識といふことができるのである。我々は普通に意識を時間空間によつて区別して考へて居るが、意識は時間空間によつて別つべきものでない、又之に由つて結合すべきものでもない。反つて時間空間の結合は、意識の質的結合によつて出てくるのである。意識の結合の方が根本的である。所謂時間空間は我々の経験を組織化する為に起つた形式にすぎない。我々の純粋経験の世界には数学的な時間空間はない。たとへば現在といつても数学的時間に於ていふ如き真の瞬間はない。拡がりを有つた現在である。持続といつても、一時間の持続も一日の持続も何ら質的変化なく単に附加されることによつて成立つ如き数学的持続であるなら、かかるものも現実の持続ではない。現実の持続は一時間よりも一日と質的変化を有する持続である。空間といつても我々の空間は筋肉感覚や視覚の質的変化によつて現はすべきものである。数学的時間空間は之よりその質的内容を捨象した形式である。故にどこまでもそれを適用することはできぬ。カントの二律背反の如きものに陥つてしまふ。加之、かくの如き抽象的な時間空間の関係を考へることが已に意識の統一によるのである。

昨日の意識と今日の意識とは、睡眠といふものに由つて分離せられて居るといふ。併しこれらは外から考へたのである。意識の内面から考へれば全く連続的である。〔尚一つ、意識は睡眠中も全く無意識でなく、いくらかの持続の感情があるでもあらう。〕(もし之が非連続的ならばすべて意識は皆非連続的である。)我々が眠つたとか目覚めたとかいふ意識が之を非連続的となすのである。その人に少しも知らせないでその人の意識を数時間催眠状態に入れ之を覚醒せしめたならば、その人は全く自分の意識が中断せられたことを感ぜぬであらう。それで我々が連続的と思ふてゐる意識でも、外からみたら非連続的であるかも知れない。勿論それは内から連続的で外から見れば非連続的で、その外から見たといふ方が客観的で、真実であるといふであらうが、その外から見たといふことがやはり意識現象といふことを免れぬから致方がない。


上来のべきたつたやうに、我々の純粋経験は時間空間の区別及び個人的区別も超越したものである。此等の区別は経験を体系化する図式にすぎない。然らばその純粋経験といふ者はどういふものであるかといふに、 autonomous, qualitatively, continuous change〈自発的、質的に連続な変化〉である。何故に自発的であるか。我々はこれ以上の実在を知らぬ。この外に制約するものがない。経験は何に由つて起るかなどといふことは、経験の説明であつて、この説明によつて実在を動かすことはできぬ。もしこの説明が実在に合はなかつた時は、この説明を変ずる外はない。此の如き自発的なる実在は質的に結合せられて居る。〔質的といふことは One〈一〉といふことである。我々の意識はすべて一である。対立するものも一である。真に絶対的独立といふものはない。もしかかるものがあれば意識は成立せぬ。〕〔量的といふことは二つの独立したものより始まる。〕実在は連続的に変化しつつあるのである、一瞬も止まることはない。而しその変化の仕方は各瞬間が将に来たらんとする状態を指示し、既に去れる状態を含んでゐる。ベルグソンの durée interne, durée pure〈内的持続、純粋持続〉といふ者が即ちこれである。この状態は常に我々の経験であるが、外から分析に由つて千万語を費しても之を述べ尽すことはできぬ。唯内から直接に之を経験しうるだけである。

純粋経験の活動の方式は之を抽象概念を用ひていひあらはすは困難であるが、試に之を云ひ現はして見れば、かくの如きことであらうと思ふ。即ち先づ the whole〈全体〉がその一部分から現はれ、徐々にその全体を実現する。併しその一部が現れた時、既に全体がふくまれて居る。ヂェイムズの That is on the table. の例。〔純粋経験にては前者が後者を modify〈変容〉するのみならず、後者が前者を変容する。〕〔経験は純粋に継起するのでもなく、純粋に同時的なのでもない。〕音楽家が夢中になつて楽を奏しつつある時の心持の如きが純粋経験の状態である。〔断崖を下る時、スタウト Stout。〕此の如き状態は知覚にてもある。例へば物を見て居る中も注意は始終動きつつあるのである。注意は a, b, c, d, と変化して行くのであるが、知覚は一つの出来事である。〔思惟でも意志でも実際にはこの形をなす。〕思惟作用であつても、選択的意志であつても、現実の事実として我々の経験に現ずる時は、皆内的持続の形で現はれるのである。全体が先づ現はれて、之を分化発展するのである。その根柢にはいつでも根本的直観がある。馬が走るといふ判断を下す時、先づ runnning horse〈走る馬〉の観念が現はれ来り、之を urteilen〈判断、分割〉して馬が走るといふのである。(即ち Urteilen der Gesamtvorstellung〈全体表象の分割〉である。)


最後に、昔から経験について所謂経験学派といふもののもつてゐた独断を排斥して置かねばならぬ。その独断といふのは経験は受動的であつて、又単純な要素の ensemble〈集合〉であるといふことである。経験が受動的であるといふ考は直接的真理ではなくして、何かの前提より来つた推論である。ロックなどのいつたやうに我々の精神は、 tabula rasa〈白紙〉の如きものである。外から物が働いて経験を生ずるといふ考から出たものである。併しこの如く外に物あり、之に対して内に心あり、両者の交渉より経験を生ずといふ如き事は、反つて純粋経験を説明する為の仮説である。此の如き考は経験の事実によつて制約せられてゐるものである。経験の事実こそ前にいつた様に無制約的である。勿論かくの如き事をいへば、然らば経験の変化は何から起つてくるか、無より有を生ずることはできまいなどといふ非難が起つてくるであらう。此の議論は後になほ詳論せねばならぬと思ふが、元来かかる考の起る本である因果の法則といふものがいかなる根拠をもつて居るものであるか。先づ此事を究めて置く必要があらうと思ふ。

因果の法則といふものはヒュームの哲学に於て既にその根拠が怪しくなつたものである。ヒュームは経験的立場から厳密に出立してみたが、因果の法則といふことは単に constant succession of phenomena〈現象の恒常的継起〉といふこと以上にいはれなくなつた。我々が因果性がなければならぬと考へるのは、一の habit〈習慣〉といふにすぎぬこととなつた。カントではこの因果性といふのは悟性形式であつて、之に由つて経験を構成する形式であるといふことになつたが、やはり経験を統一する一の形式にすぎない。今、黒かつた者が何故に次の瞬間赤に変じたか。カントの立場からしても依然として説明はできない。カントはこれは物自体より来るといふのであるが、それは分らぬといふにすぎぬ。例へば石を打ちて火を発するといふが、かくの如き現象の継起が与へられた事実である。何故にかく変ずるか。因果性によつといつた所が何等新しき新事実を与へたのではない。石の中に火がかくれて居る訳でもない。石が火を生ずる力をもつて居るのであるといへば分つたやうであるが、その実はxを以てxを説明したにすぎぬ。(モリエールの戯曲。)物理化学的の説明にしても、同一の事実を別の言葉に訳したまでのことである。

経験の変化といふことは不可説明的であり、直接的である。反つてヘラクレイトスが云つたやうに、変化が実在の真相である。唯この純粋経験の中に、一つの個体的中心ができると、之より統一するものとせられるものとの区別に由つて、能動的と受動的、主観と客観などいふことがでてくるのである。


以上純粋経験を外から考へて受動的であるとする考に対して、かかる独断よりは結論はできぬといふことをのべたのであるが、心理学的に考へても之までの経験論の考へて居ることは誤つて居る。元来我々の意識は単純な心的要素より成り立つて居るのではなく、かくの如き者は心理学者が分析して得たる科学的仮説にすぎない。例へば単に赤・感覚といふ如きものは何処にもない。直接経験はいつでもその時々に人格的である。統一的である(ベルグソン)。過去の経験でも再生した時は過去の経験の通りではない(スタウト)。

それから我々の経験が、感覚又は知覚の如き知的なものをもつて始まるといふのも誤である。我々の意識は始から衝動的である。衝動から始まる。例へば子供のママといふ概念は乳を与ふる者といふことであらう。欲求と衝動の満足とあるのみである。此の形はいかに意識が高い段階に達しても、変ることはない。すべての思想は practical meaning〈実践的意味〉をもつて居る。例へば家といふ名詞の如きものでも純粋に知的なものでない、実践的意味をもつて居る。かく知識は目的に於て実践的であるのみならず、その活動の形式に於ても意志と同一である。

もう一つこれまでの経験論は感覚、知覚の如きものを経験と云つて、此等のものの相互の関係は経験でないといつてゐる。此点にては反つて合理論と同一である。併し種々なる関係の意識も亦経験の一種である。ヂェイムズのいふやうに、 with, from, to とか皆経験である。 The relations that connect experiences must themselves be experienced relations.〈経験を結合するところの関係それ自身が経験せられる関係でなければならない。〉

第二章 主観と客観

之から余の出立点である純粋経験からして、主観と客観の区別はいかにして起つてくるか、又これからして知るといふことはいかなる意義となるかを考へてみよう。

純粋経験の状態では主観と客観とは全く一致してゐるのである、否、いまだ両者の分裂がないのである。例へば自分が物を知覚して居る時の精神状態のやうに、唯ある性質をもつた経験があるのみである。見てゐる自分もなければ見られる物もない。エルドマン Erdmann の意味に於て、デカルトの所謂 Cogito, ergo sum. である。〔エルドマンはデカルトを解して、「私の自我に於ては思惟と存在とは一つに合する、けだし私の存在はただ思惟のうちに存するからである」となす。それで「我考へつつあり、我疑ひつつあり、故に我は思惟するものなり」といふ。即ち直覚的確実性である。ヘーゲルもかく考へてゐる。 das unmittelbare Wisen〈直接知〉の状態にては Vorstellung〈表象〉と Sein〈存在〉とが結合してゐる(Encyklopädie. § 64.)。デカルト自身もかくいつてゐるといふ。 Respons. ad II Object.〕

併し反対していふであらう。かかる時は主観と客観とがないのではない。唯意識となつて居らぬのである。余の所謂純粋経験といふやうなものは我々の心理的経験であつて、明に主観的である、と。かかる説を主張する人の客観の根拠は何処にあるかを考へて見よう。

我々に客観性の感情を与ふるものは、経験論でいへば経験の事実であり、合理論でいへば論理的必然性である。先づ経験論の方から考へて見ると経験論の方で或る知識が客観的価値をもつといふことは経験の事実に合ふといふことである。而して経験の事実といへば此の純粋経験の事実の外にないのである。物理学の法則などが客観的であるといふのは、此の事実に於て検証することができるからである。物理法則といふものは主観的である。客観的実在を理解する Symbol にすぎない(ブートルー)。我々の動かすことのできぬ客観的実在は純粋経験の事実である。機械的法則は客観的であるといふが、やはりこの事実で検証せられるのである。縦し我々を離れて独立の客観的実在があるとしても、之を知るのは此の経験の事実を通じて知るの外はないのである。ガリレイ以来、運動を以て客観的性質となし、他の感覚的性質を主観的としたけれども、これは決して首尾一貫した考ではない。運動の如き、種々の感官に共通であるから客観的と考へられるのである。

次に合理論が客観性の根拠とする論理的必然性といふものも、やはり一種の純粋経験の事実にすぎない。ロックの所謂 inner intuition〈内的直観〉である。内的とか外的とか、具体的とか抽象的或は relational〈関係的〉とかいふことは、前にもいつた様に絶対の区別ではない。

以上の様に考へて見ると、我々に客観性の感を与ふるものは此の純粋経験の事実である。単に純粋経験の場所では主観と客観との区別がまだ意識的になつて居らぬといふのみではない。〔主客の別は此の経験の発展上に現じ来る区別である。同一経験の異なる二面である。かくの如き対立もこの経験の上で考へるのである。〕我々の種々の考は皆此の経験の事実を説明する為に起つたものである。すべての思想は之によつて検証せられねばならぬ。ベルグソンの élan vital〈生の躍進〉。これが我々の唯一の与へられた事実である。我々が此の客観的事実に接するとか、触れるとかいふが、その我々といふものが此の純粋経験の中の一事実である。此の外に存するのではない。元来主観と客観の区別といふのは決して根本的なものではない。此の純粋経験の上に生じ来つた区別である。本来は物我の区別があつたのではなく、一つの経験の Field〈野〉であつたのである。主観と客観を根本的に区別したところから出立した哲学は、始終此の結合に苦しみ、到底矛盾に陥らねばならぬ。主観と客観の一致はその未分以前に求めねばならぬ。


然らばこれから主観と客観の真の関係はいかなるものであつて、又此の両者の対立が前にいつたやうな純粋経験の状態よりいかにして発展し来るかを考へて見よう。

我々の意識の始、即ち生れたばかりの子供の意識は全く純粋経験の状態である。コンディヤックのいつたやうに、単に光りの感覚だけである。此時には固よりまだ主観と客観との別はないが、経験の発展するに従ひ、経験と経験との中に種々の矛盾衝突を生じて来る。これが主観と客観との分裂の本である。我々の経験は前にもいつた様に静止したものではなく、変化しつつあるものである。一つの活動である。体系的に発展するものである。〔我々の経験が systematical development〈体系的発展〉なることは知、情、意の上に於て之を証することができる。〕此の如き経験の進行はその行路に於て、他の経験の体系と衝突して矛盾を生ぜねばならぬ。即ち経験の野の上に不統一を生ずるのである。主観と客観との区別は之から起るのである。

併し此点を明にするには先づ純粋経験と不純粋経験との区別、経験の統一と不統一との意義を述べておかねばならぬ。元来経験には純粋とか不純粋とか、統一とか不統一とかの区別があるのではなく、厳密に論ずれば経験は悉く同一であつて、かかる区別は畢竟程度の差別といふことに帰するのである。しかし先づ何人もそれが純粋経験であるといふことを異議なく認めてゐるやうなものについて、その特徴をのべて見よう。かくの如き psychoses〈精神状態〉は二つある。一つは瞬間的知覚で、一つは本能的行動のやうなものであらう。かういふ状態は我々の意識の最も統一した状態である。我々の経験が一中心から統一せられて一の間隙もない状態である。〔身体は統一の極致である。純粋経験は身体と一致する。〕心理学的にいへば、思惟、感覚の区別、知、情、意の区別が全くなくなつて一致した所である。しかしそれをかくの如き心理的要素の集合せられたもの見るのは誤である。純粋経験は一つの生きた事実である。心理的要素といふ如きものは、分析に由つてできた抽象的概念である。

それで純粋経験はいつでも一であるが、心理的要素の意味で単純といふことではない。又、時間の上に於て瞬間的といふことでもない。知覚であつても仔細に研究すれば、決して一瞬のものではない。眼が物を見るにしても運動して見るのである。又、一つの注意といふことでもない。一つの注意はいくら変じても厳密な統一を保つた純粋経験といふことができる。例へば断崖を下る時の如き、又音楽家が熟練せる譜を奏する場合の如き、皆いかに注意は変ずるにしても、一つの純粋経験といふことができるであらう。


さてそれから経験が今いつた純粋経験の状態に於ていつも一中心から発展するものであるならば、いつも純粋経験の状態に於てあるであらうが、経験の中に比較的に abrupt〈飛躍的〉な変化といふものが起つてくる。即ち現在の経験体系には関係のない体系か、又は之と直に結合することのできない体系が起つてくる。此の推移が全く飛躍的で、異質的なれば、反つて衝突がない。(from perception to perception; from thought to perception and from perception to thought.)〔知覚から知覚に移るのには衝突がない。いかに異質的でもなめらかに移つてゆく。之を人は causation〈因果性〉といふのである。これに反し、一つの純粋経験の体系であつても、反省に由つて切断せられる時、衝突が生ずるのである。〕〔現在の経験体系に関係のない体系は、我々の努力が弛緩した時に起る。感情や意志が喪白となつた時に起る。間違つた事でも信ずれば真実である。(ニーチェ)。〕反つて或る点に於て同じく、而もその大部分に於て異質的である時、その衝突が明に感ぜられるのである。例之、ここに一つの青い花を見て、これは昨日見た花であるといふことを考へる。さうすると現在に見る青い花の経験の体系と、昨日に見た青い花の経験の体系の二つが起つてくる。併し現在に起つた昨日の青い花の体系といふものも、単に昨日の体系の進展ではない。昨日のものと関係をもつた現在の意識である。(普通では昨日の体系の再起は経験ではないやうにいふが、矢張り経験である。昨日の経験の延長とみるべきであらう。)〔ベルグソンなどは個人的意識の外はすべて抽象的と考へて居るが、超個人的の経験がある。芸術がそれである。ジンメルのニーチェを評した中に、ニーチェは時間の上の普遍を求めたといふ如き語があつたと記憶する。ベルグソンは意識の緊張した時が個人的で弛んだ時が同時的であるといふ。その間に質の差があるのではなく、量の差だけであるといふ。しかし所謂超個人的内容でも緊張によつて個人的となることができぬであらうか。個人的又は人格的といふことには、質的と量的と二つあると思ふ。知覚と概念とは絶対に異つたものとは思はれぬ。〕大きく考へて見れば、此の衝突その者を事実として純粋経験と見ることができるが、個人的意識だけでは消化し、統一することはできぬ。感情と意志とにて強ひて之をやればやれぬことがないかも知らぬ。しかしかくすればその大部分を切り棄てなければなるまい。そこで個人的意識にてはやはり衝突である、之を統一するにはより大なる中心を求めねばなるまい(推論は超個人的意識の事実である)。かういふやうな経験の矛盾撞着は知、情、意のすべての方面に起つてくる。要するに経験の発展上必要なる衝突である。経験の拡大である。


かういふ風に経験の中で衝突が起つてくると、主観と客観との区別はこれから起つてくる。即ちその中に比較的大きな強い経験が客観的となるのである。「大きい」といふことは一つの経験の体系の中に外の体系が包容せられることである、即ち質的の意で、量的の意ではない。「強い」といふのは経験のよく統一せられた状態である。意志〔activity, body〈活動、身体〉〕が経験の最も統一せられた状態である。 act〈作用〉に至つて精神統一の終結である。経験論が感性的経験を唯一の客観的なものと考へたのはこれが quality〈質〉〔intensity〈強度〉〕に於て最も統一した経験であるからである。之に反し、合理論が理性をば客観的なものと考へたのは、之が最も普遍的且つ最も一般的なる経験であつた故である。併し真の客観的経験は両方の性質を兼備したものでなければならぬ。かくの如き経験は偉大な天才の経験である。天才の経験とは、普通の人には理想である者が現実の事実として現れるのである。個性的であると共に非常に一般的なる意味をもつて居る。これは芸術の天才ばかりでなく、すべての天才が皆かくの如くである。

それで客観性といふものは人に由つて違ふのである。各自に於て最強の経験が客観的世界である。(夢が之を証明して居る。)〔主観と客観の差は程度の差といふことになる。両者対立の背後に包括的全体がある。〕然らば全く標準がないかといへば決してさうではない。前にいつた様な標準で経験はすすんで行く。勿論我々はどこまで行つても絶対的経験に達することはできぬかも知れないが。

之に反し我々が自分の思想にて組み立てた一つの思想の世界を客観的と考へるのは誤である。


主観と客観の性質及その関係を上のやうに考へると、我々が普通にいつて居る「知る to know」といふことも一変して来なければならぬ。〔「知る」といふことに、 We know a thing, a man etc.〈ある物、ある人等々を知る〉といふことと、 We know such and such things about the thing, the man etc. 〈その物、その人等々についてこれこれのことを知る〉といふこととがある。 acquitance-type と about-type である。即ち γνώναι, noscere, kennen, connaître. と ειδέναι, scire, wissen, savoir とである。〕

普通には「知る」といふことは主観と客観とが全然対立して相互に作用し、知識といふのは客観から主観に働く印象であつて、物の鏡に映ずる映像の如く考へられて居る。勿論物の鏡にうつる様に同一でなくても、とにかく外界と何等かの correspondence〈対応〉を保ち、そのシムボルであると考へられて居る(transcendental realism〈超越的実在論〉)。かういふ出立点からしてはどうしても在来の矛盾を脱することはできない。

之に反し主観と客観との対立は経験の発展上に於て起る衝突より成立するといふことになれば、「知る」といふことは分裂の状態から統一の状態に帰ることである。唯一つの統一した状態では「知る」といふことはない。衝突に際し、主観と客観と対立した時、認識作用がでてくる。主観の発展の結果一つの統一が生じた時、「知つた」となる。「知る」といふことは内界と外界と対応するといふことではなく、一つの経験体系の発展である。〔ヂェイムズ曰く、紙を知るとは、 rather an allround embracing of the paper by thought〈寧ろ紙を思惟によつて周囲から包括することである〉と。――編者註、これに当るヂェイムズの句は完全には次の如し。……then the paper seen and the seeing of it are only two names for one indivisible fact which, properly named, is the datum, the phenomenon, or the experience. The paper is in the mind and the mind is around the paper, because paper and mind are only two names that are given later to the one experience, when, taken in a larer world of which it forms a part, its connections are traced in different directions. The Meaning of Truch. p. 49〕

例へば目前の赤いものは火であるといふことを知る場合に、単に火の映像だけであれば、夢の場合のやうに、これも実在である。主観と客観の区別があつて確かに火であると信じ、何等の疑がなかつたならば、この考を検証したならば間違であるかも知らぬが、自分だけには知つたと思ふのである。(即ち統一の状態にある。)之に反しいくらかの疑のあつた時、即ち衝突のあつた時は、未だ之を知らぬのである。「知る」時はいかにするか。前の思想を verify〈検証〉するのである。即ちこれを展開して見るのである。前の思想即ち判断といふのは一の要求である。 hypothesis〈仮定〉である、 das Allgemeine〈一般者〉である。検証するとは、この思想を働かして見るのである。而して統一を得た時、前の思想は真理となり、「知つた」といふことになるのである。

観念と対象との関係は das Allgemeine〈一般者〉と das Individuelle〈個別者〉との関係である。〔この外、「知る」といふことの種々の場合を考へねばならぬ。概念の場合。初の判断なき場合。〕意識は流れて行き再帰せぬから、以前の経験に帰ると思ふのは誤である。我々が今、火であることを知つた時、前の経験に対応したのではない。〔ヂェイムズは認識を定義して、 The feeling of q knows watever reality it resembles, and either directly or indirectly operates on it.〈qといふ実在の感は、それが類似してゐるところの、何らかの実在を知つてゐるのである、そしてそれに対し直接にせよ間接にせよ、働きかけるのである。〉といつてゐるが、“resembles”といふことはいかがであらうか。〕却つて新しい経験を創造したのである。前の経験と関係をもつた新なる経験が発展したのである。constant and stable reality〈一定不変の実在〉といふ様なものはない。


我々の認識作用は corresponding activity〈対応作用〉ではなく progressive activity〈前進作用〉である。一の概念が客観的となるには発展せねばならぬ、即ち分化せねばならぬ。知覚であつても知覚が必ず客観とはかぎらぬ。やはり発展せねばならぬ。種々の varieties を統一して必然的に統一したものが最も客観的である。即ち主観的経験(思惟)と所謂客観的経験(知覚)と合したものが最も客観的である。(此点につきロイスなど参照。)


認識といふことを上の如くに解釈してさて認識論の大問題である実在論と観念論の争を考へてみると、此争は元来主観と客観とを二つの独立した実在の如くに考へるより起るのであると思ふ。若し此の二つの独立のものと考へるならば、どうして此の二つの者の間の相互作用ができるか、これが第一の問題である。若し主観を主として考へればすべてが主観となり、客観を否定せねばならぬ様になる。逆に、客観といふものを立てようとすれば、どうしても一つのドグマを作らねばならぬ。何か経験を超越する一つの神秘的な力を仮定せねばならぬこととなる。之に反し今いつた様に考へれば、主観と客観は時間と空間のやうに経験の Form〈形式〉である。実在ではない。二次的のものである。此等の対立のないのが根本である。於是また素朴的実在論に返つてくる。唯、素朴的実在論は首尾一貫してゐない。触覚や視覚の如きものを過重してゐる。

第三章 思惟と経験

次に思惟と経験の関係を論じて見よう。この関係からして認識論に経験論と合理論の議論が起つてくるのである。この二派の論はやはり理性と経験とは全く異なつた力であつて、我々の知識には二つの源泉ありとするより起るのである。何故に理性が経験と違つて一種特別の力であるかといへば、理性はその性質からいへば抽象的で、起源からいへば先天的必然的で、確実性或は妥当性からいへば普遍的であるといふことである。経験といふは之に反し、具体的、偶然的であり、後天的に知ることができる、必然的且つ普遍的といふことがないかも知らぬが、その代り客観的であるといふのである。

合理論と経験論との争は、此のいづれを以て真理を与ふるものであるかといふにあるが、此の二派の中に以上の如く二種を許して、認識論上二元論を立てて居る人もあるが(多くの合理論者や、経験論者の中ではロックのやうに)、またその中で一つだけ許し、他を之より導き出さうとする人もある。ヘーゲルのやうな人は思惟を唯一の力として経験の中にも思惟の性質を求めようとするのである、即ち経験は未だ発達せない思惟と見るのである。(ライプッツの petites perceptions〈微小表象〉と比較せよ。)その結果は余りに論理的性質を強調して経験の性質に十分なる権利を与へて居らぬやうに思はれる。彼はすべてを矛盾律から導き出さうとした。「自然哲学」に於てのやうに経験的事実をも思惟必然性より導き来らうとするに至つた。

之に反して経験論の方では又経験を主として思惟を否定した人もある。バークリは抽象的概念を否定して、 mere name〈単なる名前〉として了つた。所謂唯名論の説がそれである。ヒュームなどでは概念は faint image〈微弱な心像〉といふことになつて居る。ミルなどは論理的必然性といふことも習慣より説明しようとした。併し此等の説は又思惟の性質を十分に justify せずして否定した様に思はれる。

唯一つ経験論の系統より出て思惟に正当な権利を与へて居ると思ふのはヂェイムズの radical empiricism〈根本的経験論〉である。この事はこれまで敷説したこともあるが、関係といふことも経験であるといふのである。即ち思惟も経験の一種といふことになるのである。 A World of Pure Experience といふ論文の中に次の如きことをいつて居る。“The Relations that connect experiences must themselves be experienced relations, and any kind of relation experienced must be accounted as ‘real’ as anything else in the system.”〈経験を結合するところの関係はそれ自身が経験される関係である、そして経験されるいかなる種類のものも、その体系の中の他のいかなるものとも等しく現実的と考へられなければならない。〉 “To be radical, empiricism must neither admit into its constructions any element that is not directly experienced, nor exclude from them any element that is directly experienced.”〈根本的であるためには、経験論はその構造の中に直接に経験されないいかなる要素をも許してはならない、しかしそれと共にその構造の中から直接に経験されるいかなる要素をも除去してはならない。〉しかしヂェイムズは、概念は実在の substitution〈代理〉であるといふ様に考へ、「プラグマティズム」に於て、思惟は単に conventional〈便宜的〉であると云つてゐる。この点なほ、経験論の伝統に従つて思惟に十分の権利を与へて居らぬ様に余には思はれる。


余の考では所謂 perceptive experience〈知覚的経験〉と思惟即ち inner intuition〈内的直観〉とは同一の経験であつて、唯程度の差であり、性質の差別ではないと思ふ。一寸考へた所では知覚は単純であつて受動的の様に見えるが、その実は複雑であつて構成的である。知覚の中にはいつでも ideal elements〈理想的要素〉が混じてゐる、(暗中にて物を電光にて瞬間的に照らしてみる場合の如き)。我々の精神は活動を以て始まるのであるから、知覚と雖も元来は動的である、(物を取るといふ衝動より種々の感覚器官ができたといふ様に)。眼も運動に由つて物が見えるのである。真に単純感覚といふものはない、ヘフディングのいつた様にコントラストといふことが意識の成立する条件である、(即ち関係をもつてをる)。飜つて思惟といふ方を見ると、思惟とは関係の意識である。思惟は普通全く抽象的であると考へられてをるが、思惟にも具体的なる部分がなければならぬ。例へばバークリのいつた様に、三角形といふことを考へるのに抽象的な三角形といふものは表象することはできぬ。必ず何か具体的な三角形といふものを考へねばならぬ。バークリなどはこの故に概念は単なる名前であるといふが、併しかくの如き representative triangle は一の one particular triangle ではなくして one particular triangle with something である、即ち fringe〈縁暈〉をもつた三角形である、而して此の縁暈もやはり一つの経験であるのである。概念はかくの如きもので、直観的真理といふ如きは二つの概念の間の関係の意識で、やはり一つの経験である。

思惟するといふことは普通に二つの概念即ち主語と述語を結合する精神作用であると考へられて居る。併しその実は思惟といふものにはその根拠に一の直観がある。判断といふことは独逸語の urteilen が示す様に一つの全体が分割せられて生ずるのである。例へば「馬が走る」といふ判断には先づ「走る馬」の心象が現はれ来り、之を分析して「馬が走る」といふ判断が出てくるのである。数学的真理の如きものでも、綜合的判断には之を綜合する即ち二つの概念を包含する直観がなければならぬ。ロックのいつた様に論証といふのはかくの如き過程の連続にすぎぬ。


そこで知覚も複雑で、構成的であり、即ち対立がある。思惟もその根柢に一つの直観があつて、対立はこの直観の上に現れるのである。その差異といふのは純粋経験の統一の程度の差であると思ふ。即ち知覚といふのは比較的統一せられた経験であつて、所謂思惟といふのは比較的不統一なる経験をいふのである。それで思惟でも(習慣に由つて)統一ができれば一の知覚となつてしまふ、(逆に、知覚は分析に由つて思惟となるが)。〔存在と価値。意味と事実。普遍と特殊。存在の前に意味があるといふが、直接の世界は却つて意味の世界である。当為と存在。基礎としての神秘的直観。〕


思惟と経験の区別は抽象的とか具体的とか、限定されてゐるとか限定されてゐないとかいふことではない。統一不統一はこのことに関係はない。外界からその統一を破るものがなかつたならばいつもそれが具体的実在と信ぜられて居る、(夢に於てのやうに)。又内からいへば satisfaction〈満足〉があればそこに具体的実在があるのである。意図なり目的なりが実現され、満足を得てゐるところが具体的実在なのである(デューヰ)。

知覚には客観的実在が対応せなければならぬといふが、客観的実在とは前に認識の作用について云つたやうに、この純粋経験の事実の外にあるのではない。ラッド Ladd などは知覚と概念との種々の区別をあげて居るが、余は Movement〈運動〉を伴ふか否やといふことが、その主要な区別ではなからうかと思ふ。而してこの運動といふものは我々の意識の最も統一せられたる状態である。思惟には之を欠く故に主観的と見られるのである、(固より絶対にそれを欠くのではないが)。


それで思惟と経験といふものは絶対的区別のあるものではなく、両者共に同一の組織より成つて居るもので、いはば二つ共に純粋経験といふべきものであると思ふが、その互に異なつて居る方面を云つて見れば、所謂経験といふ者即ち知覚といふものは経験の統一の方面の著しきものであつて、思惟といふものは差別の方面の著しきものである。前者の方は強固なる安定した経験であるが、その代りその Umfang〈外延〉は狭い。思惟は之に反し一つの体系をなさないがその外延は広いといふべきである。固より一方より見れば知覚は偶然的で、反つて思惟の方が一つの体系をなす、即ち必然的関係を有つとも云へるのであるが、余が此処に統一といふのは意志と感情の方も入れての考である。いかに体系をなした思惟であつても、意志と感情の方の統一をかいて居れば、具体的経験より見て統一とはいはれない。美と善の様に感情と意志の方面にも、統一といふものがある。

思惟といふものは経験が発展するのに必要な一つの過程である。前にいつた様に、経験が発展する場合に経験体系の衝突より主観と客観の区別ができるといつたが、思惟はかかる場合の生ずるのである。感情や意志の方面の弱い体系をなさぬ部分が思惟となるのである。主観的といふことと思惟は一致するのである。勿論普通には感情と意志の方を反つて主観的といふのであるが、深く考へて見れば前にもいつたやうに感情プラス意志なる具体的経験を離れて、単に思惟の対象にすぎぬ客観的なものといふのは、反つて我々の構成に由つてできた主観的世界ではなからうか。例之、物理学でいふ如き客観的世界は反つて主観的ではないか。

例之、今みた花によつて昨日の花を思ひ出し、これが昨日の花であるといふ場合に、昨日の花といふのが思惟である。論理的思惟といふ如きものも之と同じきものであるが、その外延の最もひろきものである、(記憶は所謂個人内の統一で、理性は最大の統一である)。


現今のプラグマティストの議論からいへば思惟といふものは全く practical meaning〈実用的意味〉をもつたのみの、実在に関係ないものであるといふ。ベルグソンは本能が吾人の生命を示すもので、思惟は全く instrumental〈道具的〉なるものであるといふ。知的といふことは instrument〈道具〉を用ゆるより起つたものであるといふ。勿論発達の上からいへばさうであるかも知らぬが、思惟の発達と共に思惟その者が一つの新しい生命を作るといふことはないであらうか。氏は芸術は生命であるといふが、芸術といふものも知性の発達に負ふ所がないであらうか。勿論極めて生命の縁に遠い思惟もあるであらうが、これは思惟としても尚ぶべきものでなからうと思ふ。

〔思惟と経験との関係を以上の如くに考へることができるであらうならば、認識論の問題であつた合理論と経験論との争論も此点から解決することができるであらうと思ふ。思惟も経験も純粋経験としては同一構造のものである。唯その統一の方面の著しきものと差別の方面の著しきものとの区別といふことになるのである。〕

第四章 真理

之より純粋経験の立場よりして真理といふことをいかに解するかを述べて置かねばならぬ。真理といふことは普通の解釈にすれば我々が主観的に考へたことが客観的事実に合ふといふことである。即ち主観的世界と客観的世界の correspondence〈対応〉といふことである。併し前に主観と客観の関係について話した様に、対応といふ考はその根柢に於て一のドグマをもつて居りはせぬかと思ふ。極めて批評的なる考からして、このドグマを除去して見なければならぬと思ふ。〔さうして見ると対象を知るといふことは、経験が自己を超越するのではなく、経験の中での関係であるといふことになる。〕

且つ単に対応といふけれども、対応にもいろいろあるであらうと思ふ。内容に於て全く対応してしまへば対応といふのではなく、同一である。対応といふ時には何らかの点に於て異なつて居るといふことを意味して居らねばならぬ。〔対応の最も便宜的であるものはシンボルである。例之、言語の如きものである。超越的実在論などの対応はかくの如き意味のものであらう。〕〔併し idea〈観念〉が perception〈知覚〉に対応するといふ様な場合は之とは少しく異なり、内容の対応といふことであらう。〕

いづれにしても対応は同一ではなく、何らかの点に於て異なつて居らねばならぬ。然らば何物が之を対応せしむるのであるか。之を結びつける所のものがなければならぬ。

例之、 clairvoyance〈千里眼〉のやうなもので自分の頭に映じたものと客観的実在と全く同一であつても、之は真に見たとはいはれない。「知る」といふことには context〈脈絡〉の上からの連絡がなければならぬ。単に resemblance〈類似〉といふことで、その外に両者を結びつける何等の脈絡もなかつたならば、いづれがいづれに対応したのであるかも不明である。類似といふことだけでは何の説明にもならぬ。

それで、客観的世界への類似といふことになるのであらうが、その客観的世界とはどういふものであらうか。然るに客観的世界には、前にいつたやうに二つあつて、一つは perceptive reality〈知覚的実在〉、一つは logical neccessity〈論理的必然性〉である。それで対応するといふのは、この二つの実在に対応するといふことである。

先づ観念が知覚に対応する場合を考へてみる。もし同一であれば同じものとなり、また単に類似なればいづれがいづれに対応するか分らぬ。知覚が観念よりも一層生々としてゐるとか、感情及び意志を伴ふとかいふことがなければならぬ。そこれこの場合には、経験に二つの序列がある。一つは知覚であり、一つは観念である。一つは強烈であり、一つは微弱である。併し此の二つの序列は、又全然独立のものではなくて、之を包含する一つの体系があると考へねばならぬ、さなくば此の二つを比較することができぬ。かういふ様に経験の二つの序列が一つの包含的全体の中に成立し、而してその中に甲より乙への傾斜がなければならぬ。対応するといふことは、一方のものが一方の者に近づき、傾斜のなくなることである。此の如き process〈過程〉である。対応の極は同一である。抽象的観念といふものは、それ自身に於て不安定なものである、何等かの欠点をもつたものである、 unbestimmt〈限定されてゐぬもの〉である。それで完全になることを求めるのである。かく考へると前の三つもの〔即ち二つの序列と一つの包含的全体〕からなる経験の体系の様にいつたのも、実は one process〈一つの過程〉になつてしまふ。対応するといふことは developing tendency〈発展する傾向〉である。進行或は方向の意識である。知覚的実在を感情及び意志より離して考へ勝であるけれども、それは誤である。感情及び意志は知覚の性質にも関係があるであらうと思ふ。


次に論理的真理といふのは互に矛盾のないこと、即ち矛盾律に由ることで、一より他が導き出されるのである。思惟が体系化せらるればせられる程、真理と感ぜられるのである。最も真理と信ぜられるものは根本的法則から必然的に発展するものをいふのである。〔此の如き必然的発展は論理的真理の場合のみでなく、美的真理、論理的真理にもある。〕

更に物理学などの真理は前の類似などよりは一層すすんだものである。真理は経験の発展であるといふことが尚一層明になつてくると思ふ。単に類似では真理とはいはれない。類似の理由がなければならぬ。理由といふのはかくなるべき必然的条件である。経験は単に類推ではなく演繹的方法に由つて真理となるのである。この演繹といふのは経験の dynamic state〈動的状態〉より考へたものである。(勿論前にいつた様に、単に内容の類似といふ場合にも此の方面はあつたのである。唯之を見逃して居たに過ぎない。それで correspondence of context〈脈絡の対応〉と correspondence of re;ation〈関係の対応〉とは別物ではない。一つの作用の両方面である。)〕

〔思惟と客観的世界の対応といふが、此の客観的世界といふものは、思惟に由つて組立てたものに過ぎない。此思惟が経験に由つて検証せられるといふのは思惟に対応するものを知覚的世界の関係に於て見出すといふことであつて、此の対応は前にいつた内容の対応と同一である。

関係或は形式の対応と内容或は脈絡の対応とは、絶対的に異なつたものでなく、同一性質のものであらうと思ふ。脈絡なき形式も、形式なき脈絡もないのである。〕

〔correspondence〈対応〉の種類。
 1 identity〈同一〉 2 resemblance〈類似〉
 1 content〈内容〉 2 relation〈関係〉
 対応は之を結びつける context〈脈絡〉がなければならぬ。〕


それで真理といふのは、経験が自分を超越して外界の実在に対応するのではなく、経験の発展したものが真理である。〔ロイス、 1+½+¼……=2〕

それで真理はいつでも未完成のものであるが、我々はその時に最も統一したもの、即ち主観と客観の合一したものを真理とする外ないのである。絶対的真理といふものはないであらうが、経験の中に自ら秩序あり、一つの体系をなすが故に真理を定めてゆくことができるのである。

懐疑論は単に瞬間的意識だけを見て居るから無標準となるのである。その背後に時間とか、個人的自我とかいふ独断があつて、之から来る推論である。併し意識は時間と個人とを超越したものである。此等の者は反つて意識の統一から生ずるのである。


Illusion といふものは、個人に於ては事実であるが、一般的にが誤謬であるといふことなどが、一見矛盾の様に思はれるけれども、そは個人の場合に真理であつて、一般の場合には誤謬であるのである。場合が異なつて居るから、矛盾といふことはないのである。自分に今、或物が赤く見えるといふのが真理であつても、それだからすべての場合といふことはできぬ。事実と真理といふことに就ては、自分は個人の統一が事実であつて、一般の統一が真理といふことであると思ふ。〔実在を Process〈過程〉と見れば、 Correspondence-Theory〈対応説〉と Coherence-Theory〈首尾一貫説〉とを統一することもできる。〕