西田幾多郎著『哲学概論』 附録第四 実在

実在

形而上学の問題は真実在とはいかなるものであるかといふ問題である。では実在とはどのやうな意味のものなのか。恐らく実在といふことの最も普通な考へ方は、他のものに依存せず、己れ自らに於てあるものが実在だといふのであらう。スピノーザはデカルトの実体についての考へを発展させて、「実体とは、己れ自らに於てあり、己れ自らによつて理解されるものである」といふ定義を提出してゐるが、かかるデカルト学派に於ける Substanz〈実体〉の定義が普通に実在と考へられてゐるものを明瞭に規定したものといつてよい。他の存在によつて理解される如き存在もまた真の実在とは云へない。かかるものは自己以外の何かの根本原理に基づいて理解されるのであり、その根本原理の方がより実在的となる。従つて真に究極の原理は他のいかなる原理によつてでもなく、ただ己れ自らによつて理解される外はないのである。

真実在とは一応かかる意味の実体と考へておいてよいであらう。では実体とは、更に立入つてはどのやうなものと解さるべきであるか。この点に関しては色々な考がある。

第一は、 das Qualitative〈質的〉なものを実在と考へるものである。例へばここに赤いものがある。その赤いものが何囘となく現はれてくる。そのやうな場合、その赤いものは我々の意識から独立してそれ自らに於てあるものと考へられ、即ち実在と考へられる。素朴実在論の考へは大体これに近いものであらう。

しかしかかる実在の考へは一寸考へてみれば不完全なことが明かになる。我々の感覚に現はれる性質的なものを、そのまま実在とは考へ得ないからである。例へば水は零度では氷となり、百度では蒸気となる。液体としての水と氷及び蒸気としての水とは、性質的には全く異るが、やはり同じ水である。或は毛虫が蛹となり、蛹が蝶となつても、同じ一つのものと考へられるからである。かくて単に質的同一といふことでは実在といふものは十分には考へられない。

そこで第二に、働くもの das Wirkende を実在と考へる考へ方がでてくる。 wirkende Ursache〈能動因〉を実在と考へる考へ方である。 das Qualitative〈性質的なもの〉を実在とするのはギリシャ的な考へ方であり、例へばターレスが水を宇宙の根本原理と考へたのも、万物が水の性質を有し、湿潤であるといふことに基づいたのであらうが、働くもの、能動因を実在と考へるのは近世的な考へ方であり、近代自然科学の影響に基づくのである。デカルトが真の実体たる神を causa sui〈自己因〉と考へたところに、既にその趣が認められる。

しかし働くものが実在であるといふ考へは、徹底すれば das Wechselwirkende〈相互作用的なもの〉が実在だといふ考へに至るであらう。けだし唯一つのものが働くといふことは考へられない。働くといふのは、一つのものが他のものに働くのである。しかし一つのものが他のものに働くとは、逆に他のものから一つのものが働き返されることである。即ち Wechselwirkung〈相互作用〉である。例へば太陽が地球に働くことは、逆に地球が太陽に働くことである。この考へを推し拡げれば宇宙の全体が相互作用の中に立つのであり、かかる相互作用の全体が即ち真実在といふことになるであらう。ロッチェの形而上学はこの点を最も明かにしてゐる。

ところが第三に、この相互作用の全体が実体であるといふ考へは、更に一歩を深めることができる。スピノーザでは、「実体とはそれ自らに於てあり、それ自らによつて理解されるもの」であつた。ではその際、それ自らに於てあるといふことと、それ自らによつて理解されるといふこととは、どう関係するのか。デカルト学派では思惟と延長とはそれぞれ独立のものと考へられ、スピノーザに至つては両者は互に並行するものと考へられた。しかし思惟と延長、意識と存在、我と物といふ如きものは、ただ互に並行するのみの、相互に独立なものであらうか。むしろ両者共に同じ一つの実体の互に働き合ふ両面ではないか。真の実体は主観と客観の両面を含み、思惟から離れた存在も、存在から離れた思惟も、実は単なる抽象にすぎないのではないか。カント以後、フィヒテは自我とは我が我に働くことであるとし、我が我を考へることが即ち我であるとした。思惟即存在、存在即思惟である。これが所謂フィヒテの Tathandlung〈事行〉であり、それは相互作用の考へを最も突きつめたものと云つてよい。つまり相互作用の極は自覚といふことであり、自覚的なものが真実在だといふことになつたのである。真の実在は主観即客観であるところの自覚的なものだといつてよいであらう。

今述べたことは判断の形式といふものを考へてみても明かにすることができよう。我々が物を認識するといふのは、判断の形に於てである。ところが判断といふのは、主語と述語と、更にその両者を結びつける繋辞との三者から成立する。ところがその際、主語と述語と繋辞の三者のうち、どれを主として考へるかといふことで、我々の実在の考へ方は三つになる。

その第一は述語を主とし、すべてを述語の側に纏めて行かうとするものである。判断の形式で示せば、
   A₁ ist B
   A₂ ist B
   A₃ ist B
となし、A₁、A₂、A₃等々をすべてBの現はれと考へようとするものである。もと述語の方向は一般者の方向であり、性質的なるものの方向である。「この花は赤い」といふ時の「赤きもの」とか「赤い」とかいふ方向である。上述した性質的に不変なもの、一般的なものを実在と見るギリシャ的な考へ方は、判断の形式で云へばこの述語の方向に実在を見ようとするものである。ターレスが万物は水であるといつたのも、近代的な意味で水を万物の原因と考へたといふよりも、水の性質――流動的、湿潤的といふ如き性質――を最も普遍的な性質と考へ、そこから水を万物の原理と考へたとすべきであらう。即ちすべてのものを Species〈種〉と Genus〈類〉との関係で考へ、究極の類を究極の実在となしたのである。この考へ方はエレア学派でその頂点に達する。エレア学派に於て Sein, being〈有〉が究極の実在とされたのは、「有」が最も一般的な述語であると解されたのに由るのであらう。要するにこの考へ方では述語のまた述語、つまり最後の述語が最高の存在なのである。

第二は、主語の側に存在の根源を求めて行き、そべてを主語の側から纏めて行かうとするもの、つまり今述べた述語の側に存在を見て行かうとするのと正反対の立場である。判断の形式で示せば、
   A ist B₁
   A ist B₂
   A ist B₃
と考へ、すべての現象B₁、B₂、B₃等々を悉く実体Aの作用、Aの現象となさんとするものである。述語の側に実在をみようとするものが、性質的なるもの、一般的なるものを実在と考へるのに反し、主語の側に実在を見ようとする行き方は、 Dingbegriff〈物体概念〉で実在を考へ、働くもの、個物的なるものを実体とするのである。上述したデカルト学派の causa sui の考もこれであらう。主語のまた主語、つまり最高の主語が究極の存在なのである。

しかし第三に、真の実在を主語にでもなく、また述語にでもなく、却つて主語と述語を結びつける繋辞の方向に見る考へ方も成立し得る。判断の形式で示せば、
   A₁ ist B₁
   A₂ ist B₂
   A₃ ist B₃
であり、AがBに帰するのでもなく、BがAに由来するのでもなく、AとBとが共にそれらを結びつけてゐる繋辞の二つの現はれと考へるものである。大体判断といふものは、まづ主語があつて後にそれから述語が引き出されるのでもなく、また逆に述語的、一般的なものが先にあつてそれから主語的、個別的なものが限定されるのでもない。心理学的に云へばヴントの所謂 Gesamtvorstellung〈全体表象〉に基づいて判断は成立するのである。「馬が走る」といふ判断の前に、「走る馬」といふ全体表象があり、その Urteilen〈原始分割〉が即ち Urteilen〈判断〉なのである。論理的にはヘーゲルの konkret Allgemeines〈具体的普遍〉がそれであらうし、作用的に見ればフィヒテの Tathandlung〈事行〉もそれであらう。畢竟、自覚的なものを実在と見る考へ方は、判断の形式にすれば繋辞の立場なのである。シェリングの intellektuelle Anschauung〈知的直観〉の如きは、かかる具体的自覚の真相に我々を導くものと解してよい。それは一種の神秘的直観と云つてもよいであらうが、論理的には繋辞の論理によつて考へられるのである。真の実在は、主語の方向にでもなく、また述語の方向にでもなく、却つて繋辞の方向にあると云へるであらう。