「『広辞苑の嘘』の嘘」の感想

月刊正論2003年9月号の、<表現の自由>の頽廃―「広辞苑の嘘」の嘘(加地伸行著)を読んだ。

前置きとして、私が初めて「広辞苑の嘘」を読んだのは、もう1年以上前のことになるが、全体的に広辞苑の偏向ぶりをこれでもかというぐらいに指摘されていて、広辞苑に限らず辞書というのも所詮人が作ったものであるから、そういうものに頼ることは危ういのだということを学んだ。

私も以前に貝塚茂樹の書いたものを読んだ時に、何とも魅力のない文章だと思っていたので、該当個所を読んだときも、「ふむふむ、やっぱりそうか」と思いつつ読み進んだ。そして、加地伸行という人はあまり知らなかったけれど、貝塚茂樹というのはつまらん男だと言ったのは、なかなかすごい人物だなあ、とも思った。

ところが最近、その加地伸行が谷沢永一を訴えて、勝訴したという記事(http://www.sankei.co.jp/news/030520/0520sha115.htm)を見て、おや、と思って、これは何か書きたいなあと思っていたところへ、今回の正論の記事がちょうどよく出たのである。

私が読んだ限りでは、加地伸行の言い分はどうやら正しくて、それは谷沢永一も認めているようである。しかし、加地伸行が何をそんなに怒っているのかも分からないし、この文章が<表現の自由>の頽廃という題で正論に載っていることもいまいちよくわからない。

この文章を一般読者が読むとき、加地伸行とは、品のない口のききようで出版社に圧力をかけ、それを文章にまでする人間、およそ道徳性のかけらもない出版ゴロ、そういうイメージとなるであろう。(正論2003年9月号、以下同じ)

と書いているが、一般読者である私の感想は、上記の通りであった。それよりもむしろ今回の行動に、なんと小人物なことかと思った。『広辞苑の嘘』は、広辞苑が如何に間違いだらけで左翼的に偏向しているものであるかということを述べた書物である。「己のつまらない嘘を守り続けるという<小>のために、依るべき見識という<大>を失った」と言っているが、己のつまらない名誉にこだわって、それだけでなく「広辞苑の嘘」は誤りであって、やっぱり広辞苑は正しいという印象を正論読者に植え付けるようなことは、大義と小義の違いをわきまえた行為といえるのかどうか。

<表現の自由>の頽廃」ということをここで持ち出すのもどうだろうか。「<表現の自由>の頽廃」という言い方は、最近の週刊誌などの嘘やでたらめな記事や過激な性的表現、ゲームやアニメや漫画などの暴力的な表現、そういったものについて言う方が、よく当てはまる。そもそも、「<表現の自由>の遺産」などと言って、表現の自由というなにやら出所も分からないような価値観をを絶対的なことのように信じている方がおかしい。谷沢永一は、表現の自由を盾にしていろんな人や物事の批判をしているわけではない。表現の自由などはなくても、言うべきことは言う人だろう。

わざわざあの谷沢永一に喧嘩を売ることもなかろう、とも思うけれども、加地伸行もよほど悔しかったのか、暇だったのか。また、正論の編集部の方でも、谷沢永一には新しい歴史教科書のときの恨みがあるから、こういうものを載せたのだろう、という風な邪推もできる。まあ、世の中、いろんな人がいていろんなことがあるから、見ている方も楽しい。

良くも悪くも谷沢永一というのは世の中に大きな影響を与えている人である。毒舌で、思い込みが激しかったりするけれども、大きなもの、権力や常識などに潜む嘘や欺瞞といったものに敏感で、悪は悪とはっきり言う。古典や優れた人物など、良いものはとことん誉める。代わりがいない人とでも言うべきだろうか。もし谷沢永一がいなかったら、誰が広辞苑の偏向を教えてくれたのか。加地伸行は教えてくれなかっただろう。また、出版差し止めになったことで、そのまま本屋さんに置いてあれば、もしかしたら広辞苑を買おうとしてふと目にとまった「広辞苑の嘘」を手にとって読んで目から鱗が落ちたかもしれない人の目の鱗はついたままである。

しかし私は、加地伸行とはつまらん男だ、と思いつつも、これがきっかけで加地伸行著の『儒教とは何か』を読んでいたりもする。これはこれでおもしろい。