私的死刑廃止論

法律というのは、論理的に組み立てなければならないから、どうしても唯物論的になってしまうのはしょうがないことであるが、死ということに関しては、そう軽々しく扱うべきではない。死刑と唯物論というのは深く結びついている。唯物論は人間の尊厳など認めないからだ。ソ連や中国などの唯物論国家が、史上空前の大量殺戮を公然と行ってきたことからもそれはうかがえる。

死刑ということを語るには、まず来世を認めるという前提をはっきりさせなければいけない。

宅間守に死刑判決が出たという。多くの人が、あれだけのひどいことをしたのだから、それは当然だろうと思っているだろう。しかし、私は思う。仏典には、殺人鬼アングリマーラが改心して仏陀に帰依して、石を投げつけられたりしながらも修行して、ついには解脱して菩薩になったとかという話がある。詳しくは、検索すればいくらでもでてくる。(Google 検索: アングリマーラ)

さて、言わんとするところはもう分かったと思うけれども、私なりの説明をすると、私は罪というのは犯したこと自体が既に罰を伴うものであると考える。その良心の呵責はもう考えただけで恐ろしい。衆人の目というものもある。いかに厚顔無恥な人であろうとも、人である以上、反省を促したりすればいつかは気がつく時が来ると信じる。ああ、俺は間違っていた、申し訳なかったと、涙を流して回心したときにはもう死刑が確定していたら、どうだろうか。私がもし世の権力者で死刑を言い渡した者だとしたら、それはひどく後悔するだろう。

また、仮に回心せずに死刑になったとしたら、それはそれで大変である。まず間違いなく地獄に堕ちて、何十年、何百年と苦しむことになる。そこまで考えての死刑判決なのか、と問いたい。そうではないだろう。死ねば必ず地獄に堕ちる者をあえて殺さずともよいではないか。それよりも、何とかこの世に生きているうちに回心させて、少しでも良いことをさせて罪をつぐなわせて、地獄の釜の湯の温度を低くさせたい、というのが、来世をも認める考え方である。

殺された子供たちは、その瞬間は痛くて苦しかったかもしれないが、死後も苦しんでいるわけではないだろう。遺族の苦しみも大変だろうが、改心するまで待ってあげるということも大事であるし、改心したならば許すことも大事であると言うしかない。地球上を見渡してみれば、あるいは歴史を見てみれば、子供の一人や二人失ったことがそれほどの不幸かどうか、ということも考えてみるべきである。それにとらわれて、恨みつらみで生きることは、不幸に不幸を積み重ねることに他ならない。死刑にしたところで、恨みは消えない。「恨み心で恨みは解けない」のである。

私は、どんな極悪人にも、回心の余地はあると信ずる。人の生き死にを決めてよいのは天のみである。


付記(9月16日)

月刊亀井静香を購入して読んだところ、偶然似たようなことが書いてあったので引用する。

「やられたらやり返す」的な憎悪と報復の連鎖は、いったい何を生み出すでしょうか。人の心の中には、悪魔も、天使も、仏も住んでいるのだと私は感じています。報復感情を満足させることから脱却し、被害者やその家族の「仏の心」を引き出すような努力こそ、国家がやるべきだと思うのです。

似たようなことというのは失礼で、亀井静香が言うのはさすがに深みがある感じである。亀井静香はこの他に、死刑全廃の国を74ヵ国挙げて死刑を廃止した国で犯罪が増加したこともありませんと言い、死刑が犯罪の抑止力になっていないことを指摘し、更にもう一つの理由として常にある冤罪の可能性ということを述べている。