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本能寺の変を語る

ここ数日、一人であれやこれや、ぐるぐると考えて、それこそ愛宕山に参籠したくなるほど考えて、どう書こうか、うーんと悩んでいた時、ふと吉川英治の太閤記を読み直したら、言いたいことがほぼ書いてあったので、引用する。
(愛宕山の参籠の場面で)
 昭々たる神のみ前に、光秀は自己なるものを、いかに辱なく持とうとしたろうか。
 腹心の家臣が、眦を裂き、いかに哭いてこの挙をすすめたとしても、彼と信長との間の私憤私恨だけでは、なお顧みて安んじきれないものがあろう。
 いつ自分も、荒木村重や佐久間父子のような末路に終わるかもしれないという危惧不安が――窮鼠の如く、生きんがために、一転この先手を打たせるに至ったものだ――という自己弁護も、彼の良心を頷かせるまでの理由にはなるまい。
 ここからわずか五里、目と鼻のさきに当の怨敵は、いとも軽装で逗留している。またなき機会だ、絶好な天運だとする――出来心にも似た野望と自身で意識しては、なおさら神のみ前に祈願はこめられまい。
 が、彼の頭脳は、以上のすべてを別として、ほかに自分を正当づける理由を索すのは、さして困難はしなかった。
 それは、二十余年来の信長の悪い反面だけを罪状として数えることである。わけて信長の極端な文化破壊と旧制度の変革をもって、もっとも大罪として世に問うことだった。 (文庫版新書太閤記第8巻より)
これでもまあ8割がた納得がいくのだけど、私は、本能寺の変を決断して成功に導いた要因として、加えてもう一つの仮説を提示してみたい。
上の文章には出ていないけれど、愛宕山の参籠では、神前にて祈る前日に、仏前にも詣でている。
わたしは、篤かったという光秀の仏神に対する信仰というのが大きな原因ではないかと思うのである。

そもそも、信仰の力というのは、古今東西、数々の例を挙げるまでもなく、物凄く強いものである。
光秀の歌とされる、
「心知らぬ人は何とも云はばいへ、身をも惜しまじ名をも惜しまじ」
これは、もう自らの野望に開き直ったものとも受け取れるけれども、別の解釈をすれば、(自分のやることは仏神のみが知っている。名を惜しんで死ぬのが武士道であるけれど、自分はそれを超える価値のために、身を投じ、名をも惜しまないのだ)という風にとれなくもない。

仏教の立場から見れば、信長は、比叡山の焼き討ちはまあしょうがないとしても、以来、つい先頃も快川国師を焼き殺し、僧を殺すことがもう慣れっこになってしまっていて、しかも利のためとは言え、外国の異教徒と付き合い、布教することを許し、極論すれば、正教を迫害して邪教を広めんとする者であり、そういう者を誅殺する光秀は、仏法守護の神の化身かとも思われるであろう。
神道にしても、信長は皇位簒奪を企んでいたとかいう話もあるから、同じことである。

さらにオカルト的な視点で言えば、愛宕山の参籠で、光秀は仏神に対して御伺いを立てているわけだから、当然仏神は光秀がこれから何をするかを知っていたけれども、それを阻止するようなことは、一切しなかった。信長やその周辺の者に対しても、虫の知らせといったものを与えることはしなかった。
あるいは、仏神はむしろ積極的に働き、光秀に「時は今、信長を討て」とインスピレーションを下ろし、光秀をして信長を討たしめたのかもしれない

これを普通の言葉で言えば、信長には桶狭間のような幸運はなく、仏神の加護もなく、天命ここに尽きた、ということである。

(2003.6.24)

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